赤心富士のある
六 所 宮

 北区には六所社という名の神社があちこちにある。上飯田の神社も元は六所社だったが、昭和の終わり頃に六所宮へと改称した。多くの境内社があるが、それと共に太平洋戦争にかかわる遺物も多い神社である。国旗掲揚塔や赤心富士といった、一路戦争に邁進していた時代の空気を今に伝える、貴重な歴史遺産が残されている。

    多くの境内社と 花をくわえた狛犬   国旗掲揚塔   赤心富士と少年少女日参団



多くの境内社と 花をくわえた狛犬

 六所宮の旧社格は村社で、創建の時期は『愛知県神社名鑑』では「明らかではない」とし、『北区の歴史』では慶長4年(1599)としている。
 祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉册尊(いざなみのみこと)、天照皇大神、月読尊、素戔男尊、蛭児尊の6柱である。

 社名は「六所社」であったが、昭和56年(1981)に戦災で焼失した社殿の造営が完了した時に9等級に昇格し、「六所宮」に改称したとのことだ。このため南に建つ神社名を刻んだ社号標は「宮」の所に字を入れ替えた痕跡がある。一方、東入口の旧社号標は「村社 六所社」と彫られている。

 本殿右手にいくつかの社がある。ひときわ大きいのは天満宮、その他に貴船社、出雲社、八龍社・神明社・天神社の相殿、弁財天社だ。村絵図にある天神宮が天満宮、八竜宮が八龍社、神明宮が神明社にあたり、別の場所に鎮座していたのがここへ合祀されたものだ。『愛知県神社名鑑』では、大正2年(1913)に神明社・天神社・厳島社・八龍社を合祀したと書かれている。『尾張志』には「六所社 貴船社 八王子社(以上三社同地) 神明社 天神ノ社 辨才天社 八龍社 上飯田むらにあり」とあるので、貴船社は江戸時代から六所宮にあった神社だ。

 南入口の鳥居は昭和11年(1936)建立で上飯田町納税組合が奉納。神社への奉納は、個人・企業・町内会などが多く、納税組合の奉納は珍しい
東入口の鳥居は大正9年(1920)の建立で、今の上飯田第二住宅の場所にあった大きな製糸工場である小松製絲所が奉納しており、製糸所があったことを今に伝える貴重な遺産となっている。。

 手水鉢は左半分に生花が浮かべられ華やかだ。宮司?さんに聞いた話では、以前は浮かべていなかったが、コロナが蔓延し感染予防で手水鉢の使用を止めた時に全面に花を浮かべるようになったとのことである。その後、規制が緩和され参拝者が訪れるようになったので、手を清められるように半分だけ花を浮かべているとのことだ。なお拝殿前に置かれている狛犬の左の「うん」の表情をしている方は、口に花をくわえている珍しい造形になっている。
 手水鉢右に凹凸の多い大きな石が置かれているが、これは三重県の菅島から運んできたものだとのことである。


六所社→六所宮


「小松組製絲所」

拝  殿


天 満 宮

境 内 社


 花を浮かべた手水鉢


花をくわえた狛犬


菅島からの石




国旗掲揚塔
 拝殿の右手に鉄柱が建っている。国旗掲揚塔だ。
 台座を見ると今では見かけないマークがついている。星・錨・盾・剣をデザインしたものだ。これは在郷軍人会のマークである。
 裏面には「日支事変ニ応召ノ命ニ接シ出征スルモノ六十余名 郷民神前ニ 壮行ヲ壮ニス 偶見ル社頭ノ国旗退色甚キヲ慨シ衆議忽チ一決シテ 乃チ此掲揚塔ヲ竣工ス 昭和丁丑秋九月盡日 帝国在郷軍人会 飯田分会上飯田班建之」と書かれている。なお、昭和丁丑(ひのとうし)とは12年、盡日とは末日のことなので、昭和12年(1937)9月30日に建立されたものである。この年の7月7日に盧溝橋事件が勃発したが、その2か月後に建てられている。

 上飯田からもたくさんの若者が赤紙(召集令状)で召集され、この神社に参拝して人々が万歳三唱するなか異国の戦場へと旅立ち、日本は戦争への道を邁進していった。そのようななか、この塔が建立されたのである。




赤心富士と少年少女日参団
  ◇赤心富士
 南の鳥居から境内に入ると、すぐ左に「赤心富士」と書かれた石柱が建っている。脇に「松井大将書」とある。名古屋出身の陸軍大将松井石根の揮毫したものだ。その後ろには富士山風の形をした石が建てられ、それには細かな字がたくさん彫られている。

 歳月を経て読みにくくなっている所もあり下部は地中に埋まっているが、何とか判読できる所を拾ってみた。
 
           建設之由来
    昭和拾弐年七月七日盧溝橋ニ端ヲ発シ新東亜建設ト云フ一大聖・・・
    的ヲ達成センガ為メニ支那事変ガ始リマシタ
    皇軍ノ将士ハ御召シニ応ジ我ガ上飯田カラモ大勢勇躍出征・・・
    君国ノ為メニ一身一家ヲ顧ズ御盡シ下サイマス勇士ノ皆様ガ御・・・
    御樹テ下サイマスヤウニ少年少女日参団ヲ組織シ爾来春風秋・・・
    欠カスコトナク団員ハ毎日一人ガ一個ヅツノ小石ヲ六所社ノ神前・・・
    精魂ヲ打込ンデ御武運ノ長久ヲ祈ッテ参リマシタ
    今此ノ石ヲ以テ興亜ノ瑞祥トシテ霊峰冨士ヲ型リ一ハ武運長久祈・・・
    記念トシ一ハ「塵モ積レバ山トナル」ト云フ訓ヲモ知ラセ人ヲシテ・・
    打タセシムルモノヲ感ゼシムルコトガ出来マスレバ幸甚ニ存ジマス
    茲ニ之ヲ永久に伝ヘンガタメ吾人ノ微意ヲ現シテ建設ノ辞トシマ・・・
      昭和拾五年四月
            上飯田少年少女日参団
            南上飯田少年少女日参団
            西上飯田少年少女日参団
            新堀町少年少女日参団

 盧溝橋事件を契機に日中戦争が始まると、国民の戦意を高めるためさまざまは方策が採られたが、その一つが少年少女日参団だ。子どもたちが毎日集団で神社を参拝し、戦争の勝利やその町から出征した若者の武運長久を祈るという行事である。上飯田では、参拝する時に小石を持って行き、それを神前に積み上げて富士山のようにした。そのことを記したのがこの石碑である。

 太平洋戦争で、六所宮はすべて灰塵に帰してしまった。しかし皮肉にも、赤心富士、国旗掲揚塔という戦時をうかがわせる物は残ってしまった。
 この神社にたたずむだけでも日本の歴史をたどることができる。富士山が世界遺産に登録された。霊峰富士は武運長久を祈るものではなく平和の象徴として広く親しまれて欲しいと思う。

 なお、これまで私が訪問した神社で日参団に関係した石造物は、六所宮のほかに次のものがある。
  ・鹽竈神社(中川区)
    「献木 支那事変日参壹週年記念 日置通二丁目第八組赤誠健児団」碑(昭和14年建立)
  ・紀左衛門神社(南区)
    「全名古屋市日参 少年少女日参団 結成記念樹」碑(昭和13年建立)
  ・白山神社(東区)
    「支那事変記念」幟建て石(昭和15年建立)

◇絵葉書などで見る少年少女日参団
・「高岳二丁目少年少女団」
 冨士神社参拝風景が絵葉書になっている。幼稚園から小学生ぐらいの年頃の子どもたち27人が、先に旗が付いた棒を手にしている。旗には「祈武運長久 ○○君」書かれているが、名前はすべて異なっている。高岳二丁目という狭い区域からだけでも、これほど多くの若者が戦場に投入されていたのだ。大人は女が1人と男が7人付き添っている。男は軍隊風の帽子や服を着ているが、その格好が似合わない年配者ばかりだ。若者は戦場に、銃後は年寄と女と子どもばかりという状態である。




幼稚園児ぐらいの子どもも日参

・「日置通」二丁目第八組 赤誠健児団」
 塩竈神社(現:中川区)参拝風景が4枚の組絵葉書になっている。
 日参に向かう風景、神社で子どもの代表が祝詞を奏上している風景、宮城(皇居)遙拝などを済ませて境内から出てくる風景、境内の忠魂碑前の桜六輪が10月に花開いた風景である。男の子は坊主刈り、女の子はおかっぱ頭、付添の女性が掛けるタスキには「大日本国防婦人会」の文字があり、昭和13年の風景だ。この年の5月には国家総動員法が施行されている。



整列して参拝に

   
子どもの代表が神前で祝詞奏上

整列して帰宅

 
忠魂碑前の桜が、十月に開花
→ 戦勝の瑞兆?




 2025/12/02