紀左衛門新田の鎮守
紀左衛門神社
 この神社は、紀左衛門新田が開発された江戸時代の創建だが、境内社には平成になり勧請されたのもある。近年に新たに勧請された神社は珍しい。
 広い境内にはいくつもの記念碑があり、この地域が歩んできた歴史を今に伝えている。

    江戸時代の神社と近年招聘の神社   歴史を伝える さまざまな碑



江戸時代の神社と近年招聘の神社
◇寛政6年(1794)の創建
 紀左衛門神社は、境内の由緒碑によると紀左衛門新田開発から40年後の寛政6年(1794)に創建された。旧社格は村社である。

 祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)・誉田別命(ほむたわけのみこと)・迦具土命(かぐつちのみこと)の3柱で、境内社に紀左稲荷社と紀左天満社、神社に貢献した者を祀る祖霊社がある。このうち、紀左稲荷社は昭和37年(1962)、紀左天満宮は平成5年(1993)の勧請である。

 なお、鳥居左に立つ石碑には、「創建宝暦□□□……」〔多分、宝暦二壬申(1752)……〕の文字が見られる。






歴史を伝える さまざまな碑
◇「少年少女日参団」碑
 鳥居の右手には大きな木の下に傾いた石柱がある。
 4面に「祈皇軍武運長久」「全名古屋市日参 少年少女日参団 結成記念樹」「名誉総裁 陸軍大将松井石根閣下」「昭和十三年(1938)十月二十日」と刻まれている。
 これは日中戦争中に戦意高揚のため、地域単位で子ども達に日参団をつくらせて、毎日集団で神社に参拝させたが、その日参団を結成した記念の植樹碑である。
 戦争は子どもたちも、戦争遂行の一機関に組み込んでしまう。二度とそのような日が来ないことを祈るばかりだ。

 これまで私が訪問した神社では、北区上飯田南町の六所宮にある「赤心富士」、中川区にある鹽竈神社の「献木 支那事変日参壹週年記念 日置通二丁目第八組赤誠健児団」碑があり、市内には他にもいくつか日参団の碑があるようだ。




◇紀南橋親柱
 参道の両側に紀南橋の親柱が2基保存されている。1基には「紀南橋」、もう1基には「大正5年」の文字が見られ、由緒碑が添えられているる。

 この橋は、紀左衛門新田の排水路に架かっていた橋で、現在の中京病院西付近にあったが、昭和50年(1975)に堀川沿い道路の工事で取り外されたものである。





昭和30年 『港区全図』
◇名古屋城再建記念碑
 参道左手に名古屋城再建記念之碑がある。
 碑石は、昭和30年(1955)に堀川を浚渫していたところ、白鳥橋付近の川中から出てきた石で、ちょうど名古屋城が再建されたときなのでその記念碑にしたという。碑の裏面を見ると、切り出すときに彫られた矢のくぼみが見られる。

 建立されたのは昭和34年(1959)10月1日となっている。5日前の9月26日に伊勢湾台風が来襲しこのあたりは大きな被害を受けているので、実際に建てられたのは少し後のことかもしれない。




◇鎮魂碑
 その奥に明治百年を記念して昭和43年(1968)に建てられた鎮魂碑がある。
 裏面には戦死者51名、戦災死者9名、災害死者4名の氏名が刻まれている。災害死者は伊勢湾台風で亡くなられた方であろう。それに比べて戦死者や戦災死者の数が非常に多い。
 戦争がいかに多くの犠牲を生むのか、如実に示している歴史資料である。



 2023/10/13