宮城県の鹽竈神社より勧請
|
|
この付近で一番大きな神社で、旧社格は村社〔昭和11年(1936)指定〕である。
鳥居と蛮塀の奥には、本殿を始めいくつもの境内社が並んでいる。本殿に祀られているのは塩土老翁神(しおつちおじのかみ)・武甕槌神(たけみかづちのかみ)・経津主神(ふつぬしのかみ)の3柱である。境内社に、神明社・津島社・秋葉社・無三殿(むさんど)社・塩玉稲荷社・白光龍神社・靖霊社の7社があり、靖霊社の横に忠魂碑が建って居る。また、本殿左横には名古屋築城時の落とし石(運搬中に落ちた石は縁起が悪いとして、そのまま放置したといわれる)がある。
立派な神社だが、歴史についてはよく分からないことが多い。
|
|
|
◇江戸時代の文献では
江戸時代初期の寛文年間(1661~73)に藩が編纂した『寛文村々覚書』の日置村の項を見ると、神社は5か所あり八幡(現:日置神社)・山王(現:白山神社の境内社日吉神社)・白山権現(現:白山神社)・山神(現:山神社)・神明(現:日置神社に合祀)となっており、鹽竈神社らしきものは記載されていない。1800年前後に樋口好古が編纂した『名古屋府城志』も同様である。
また、天保12年(1841)の村絵図を見ても鹽竈神社の記載がない。私が調べた範囲では鹽竈神社の記載がある一番古い地図は、明治11年発行の『名古屋明細図』である。
|
『名古屋明細図』 明治11年
|
|
◇社伝では
鹽竈神社はホームページを開いているが、このように書かれている。
「当社は天保6年(1835)名古屋城築城の折り奥州国の武将岩田藤忠公が名古屋城築城工事安全・無病息災を祈願し奥州一之宮鹽竈神社の御分霊を尾張国にお迎えされました。
当初は名古屋城内に祭られていましたが、お城の完成に伴い天保6年(1835)にこの西日置に遷座され現在にいたります。……江戸時代には武将の信仰が厚く社殿などの改修工事に多額の寄進がありました。
堀川の開削工事を進めた福島左衛門大夫正則(福島正則)は手水石のご奉納いただいております。福島正則公は本豊臣家の家臣であったこともあり手水石は瓢箪型に掘られています。」
名古屋築城は慶長15年(1610)なので、年号は誤記であろう。なお、境内の説明板には年号の記載はなく築城工事の無事を祈って勧請したとなっている。 |
|
「奥州国の武将岩田藤忠」が勧請したとしているが、東北の大名は名古屋築城の御手伝い普請に来ていない。武将個人で自主的に手伝いに来たのだろうか。
また「当初は名古屋城内に祭られていました」となっているが、『金城温古録』にはそのような記録を見つけることができなかった。
なお、正則が奉納したという手水石は、境内の説明板によると御祓いを受ける人が使っているとのことであり、社務所の窓から見えるのがそれである。
|
社務所内の手水鉢 |
|
◇『愛知県神社名鑑』では
平成4年(1992)に愛知県神社庁が発刊した『愛知縣神社名鑑』の記載は次のようになっている。
「慶長十五年(1610)名古屋城築城に際し工事の無事遂行を祈願し尾張藩士岩田藤忠奥州一宮鹽竈六所大明神を勧請して、日置古渡両部落の堺、江川と笈瀬川二川の合流地畔に社地を定め奉斎する。築城関係の諸大名の崇敬特に篤く福島正則は手洗盤を寄進した。延宝年間(1673~80)尾張藩士松平康久境内を整え社殿を改修する。文化十三年(1816)秋百姓善蔵日置村巾に移し祀る。天保六年(1835)九月字中田の現在地に遷し同村の氏神として奉祀し昭和五年社殿を改築造営する。
昭和十一年十月一日村社に列し同年十月九日、指定社となる。
同二十年三月の大空襲に遇い境内火の海となる宮司身を挺して防ぐその功績は末世まで讃えられる。境内社に痔病に霊験あらたかな社あり」
神社のホームページ記載の内容と異なるのは次の点である。
・岩田藤忠は東北の武将ではなく尾張藩士となっている。
・最初の鎮座地が名古屋城ではなく、笈瀬川と江川が合流(無三殿杁)する付近となっている。
〔なお、江川と笈瀬川の支流は合流ではなく、実際は笈瀬川支流の上を江川が掛樋(水路橋)で超えていた。延宝年間に社殿改修などを行った松平康久は、江川と笈瀬川支流が交差する北東に天和元年(1681)まで下屋敷があった。〕
|
|
・文化13年(1816)に日置村巾へ遷座したと書かれている。
〔「巾」は現在の鹽竈神社の東地区である。遷座したのは百姓善蔵としており、築城大名など武士の崇敬を受けていた神社を百姓が遷座したのは不自然な感じも受ける。しかし文化7年(1810)に堀川東側の日置村本村から13戸がこの神社付近へ移転して支邑(しゆう)ができており、何らかの関係があるかも知れない〕
・天保6年(1835)に、中田の現在地へ再遷座した記載がある。
〔天保12年に描かれた村絵図には、12戸の萱葺屋根の百姓家と、明らかに造りが異なる瓦葺か板葺の建物1戸が描かれている。神社とは書かれていないが、この建物は明治11年の『名古屋明細図』記載の集落と鹽竈神社の位置関係ともほぼ符合するので、神社の可能性が高い〕
立派な神社にも拘わらず、江戸時代の記録に名前が出てこない不思議な神社だが、昭和5年(1930)に社殿の改築が行われ、11年(1936)になると村社に指定され、今のような立派な神社になっている。 |
『日置村絵図』 県図書館蔵
『日置村絵図』 天保12年 |