愛知県内に大きな足跡
黒川治愿

 黒川(堀川上流部)の名は、愛知県技師 黒川治愿が開削したことにより付けられた。治愿は明治8年から18年までのわずか10年余しか在職していないが、その間に県内各地で数多くの土木工事を行い、県内の利水・治水・交通の便を大きく改善した人物である。


    経  歴   主 な 功 績   活躍した時代背景と退職



経  歴
◇経  歴 (年齢は数え年)
 黒川治愿(はるよし)は弘化4年(1847)に佐波村(現:岐阜市柳津町)で、大庄屋である川瀬文博の次男として生まれた。
 明治元年(1868)に京都に出て3年(1870、24歳)から4年は宮内省舎人局の直丁(雑務を担当する職)を務めた。この時御所御用人である黒川敬弘の養子となり姓が黒川に変わった。

 5年(1872、26歳)に香川県〔6年に徳島県と合併して名東(みょうどう)県、9年に再分離〕の等外2等出仕、6年(1873)に15等出仕となり、8年(1875)に土木係事務の担当になった。

 8年(1875、29歳)11月から愛知県の12等(14等とも)出仕として勤務し、翌12月には安場保和が新県令に任命された。9年(1876、30歳)3月に勧業課の土木主務心得に任命され県内の土木事業に尽力するようになった。13年(1880、34歳)4月に勧業課から土木課が独立した時に、治愿は4等属土木課長に任命された。
 その後、17年(1884、38歳)には1等属に昇格しているが、翌18年(1885、39歳)3月に辞職した。

 20年(1887)に復職するよう求められたが固辞し、30年(1897)5月に南久屋町の自宅で病没(51歳)している。

◇官吏の等級
 現在の県職員は地方公務員だが、戦前は国の官僚であった。
 等級は時代により区分が異なるが、明治10年(1877)1月改定の等級では県の場合次のようになっている。
 任命にあたり天皇へ奏上される「奏任官」が、県令・権令・大書記官・少書記官の4職である
 「奏任官」の下に行政官庁の長により任命される「判任官」があり、1等属から10等属までの10段階に分かれている
 「判任官」の下に「等外」があり、等外1等から等外4等までの4段階に分かれている。

 明治10年(1877)以前は違う区分だが、治愿は香川県に等外2等で出仕して、愛知県退職時には判任官最高位の1等属に昇進している。




主 な 功 績

◇黒川開削と新木津用水の改修
 明治9年から10年(1876~7)にかけて黒川を開削し、16年(1883)に新木津用水の改修をおえた。
 これにより名古屋と犬山の舟運が始まり、新木津用水と庄内用水の潅漑区域へ潤沢な用水を送られるようになった。

 記念碑
  「木津用水改修之碑」……春日井市朝宮公園西。明治18年(1885)建立。
              太平洋戦争の金属供出で失われ、昭和28年(1953)再建。
  「改修記念碑」……………白山神社(味鋺駅北)参道。明治30年(1897)建立。
  「黒川治愿君遺沢碑」……御幸橋(八田川)たもと。明治42年(1909)建立。
  「報徳碑」…………………御幸橋(八田川)たもと。明治42年(1909)建立。

◇熱田湊の改修
 明治10年(1877)、浅く大型船が入れない熱田湊の改修を行った。航路部分を浚渫してその土で明治新田を造り、熱田海岸に波止場を設けている。

◇洗堰の改修
 明治11年(1878)・16年(1883)に洗堰の改修を行った。
 天明7年(1787)に新川を開削し洗堰を設けて、庄内川が一定以上の水位になると新川に放流するようになった。その後しばらくは水害が減り安定していたが、流砂により庄内川の川底が年々高くなり洗堰の半分の高さまで上昇した。その結果大雨が降るたびに越流し、新川沿川地域は水害に見舞われた。
 このため明治11年(1878)に洗堰の改修を行ったが、14年(1881)秋の増水時に壊れてしまい修理した。しかし翌15年(1882)秋の増水で再び壊れたので16年(1883)に堅牢な堰に改修した。

 記念碑
  「修理洗堰碑」…………洗堰の堤防上。明治16年(1883)建立。


◇明治用水の開削
 明治12年から18年(1879~85)にかけて開削。
 矢作川から取水して西三河南部を潅漑する、幹線延長が52㎞、支線の延長が160㎞の農業用水(現:工業・上水にも使用)。
 安城が原(現:安城市)など水が行き渡らず荒野が多かった台地の開発が進み、「日本のデンマーク」と呼ばれる優良農業地帯になった。

 記念碑
  「明治用水開渠記念碑」……安城市浜屋町西新切。明治13年(1880)建立。

◇立田輪中の水害改善
 明治12年(1879)、新たに川を掘り鵜戸川へ排水、併せて堤防を強化した。
 川に囲まれた立田輪中は排水が悪く、北部は高く南部は低い地形であった。このため南部は浸水しやすく北部からの水を阻止するため土盛りするなどして南北の対立が激化していた。排水を改良するため新たに水路を掘って鵜戸川を北へ延伸し、併せて輪中堤防を補強した。

 記念碑
  「増穿鵜戸川碑」……愛西市新左衛門新田。明治13年(1880)建立。

◇入鹿池堤防の改修
 明治12年から15年(1879~82)にかけて堤防の改修と余水吐の設置を行った。
 入鹿池は明治元年(1868)に梅雨の長雨で破堤し、941人の死者と1,471人の負傷者を出した。その後、堤防を築き直したが不十分で、入鹿用水の水量不足と池の堤防の再破堤が懸念されていた。改修により水量・安全性ともに十分なものになった。

 記念碑
  「入鹿再築碑」……入鹿池の湖畔。明治16年(1883)建立。

◇矢作川左岸地域の治水
 明治15年から18年(1882~5)にかけて、岡崎市付近から下流部の左岸地域で治水工事を行った。
 矢作川は天井川なので下流部では水害が起こりやすく、流砂の堆積で農業用水も不足し、従来から問題になっていた。明治15年(1882)に矢作川支流の乙川が破堤し30名の犠牲者が出たため、県会が治水工事を建議したのを契機に改修工事が行われた。乙川や矢作川の堤防補強などを始めとして、菱池の築堤や排水路の開削、用水路の改修、はげ山への植林など広い地域でさまざまな施策が行われた。

 記念碑(下記を始め8基)
  「三郡輪中治水碑」……岡崎城の南。明治18年(1885)建立。

◇宮田用水元杁の改修
 明治16年(1883)元杁の改修工事を行った。
 宮田用水は木曽川から取水して庄内川以西・木曽川以東の地域を潅漑する愛知県最大の用水だが、下流部では水不足に悩んでいた。このため従来より大きな元杁に改築した。

◇郷瀬(ごうせ)川の改修
 明治16年(1883)に郷瀬川の瀬替(せがえ、流路を変えること)を計画したが、国貞県令の死亡で延期になり、治愿退職後の19年(1886)と23年(1890)に工事が行われた。
 郷瀬川は犬山東部の丘陵地からの水を集めて現在の合瀬(あいせ)川の経路で新川(開削前は庄内川)へ流れ込む川であった。農業用水にも利用されていたが、豪雨が降ると氾濫しやすい川であった。このため現在のモンキーセンター南付近から新しい水路を掘り、上流部の水は木曽川へ流入するよう改善した。

 記念碑
  「郷瀬川治水碑」……明治26年(1893)建立。
            治愿は「工事担任官吏 元愛知県土木課長 黒川治愿」と記載。

☆『偉人 黒川治愿傳』
 令和3年(2021)、「黒川治愿顕彰会」の発刊。浦野利雄氏が治愿関連の石碑を永年調査してきたが亡くなられ、遺志を継がれた人たちが顕彰会をつくり出版。治愿の経歴等に加え県内の治愿が関連する石碑の写真と碑文を収録。市販はされていないようだが、図書館への寄贈とインターネットでPDF版が公開されている。




活躍した時代背景と退職

◇わずか10年の勤務
 治愿が愛知県で勤務したのは、明治8年(1875)11月から18年(1885)3月までの、わずか10年余りである。年齢は数え29歳から39歳の、体力・気力とも充実し、経験も積んだ時期であった。

◇上司に恵まれる
 上司に恵まれた。愛知県に赴任したすぐ翌月に、安場保和が福島県令から愛知県令に転任が命じられた。前任地の福島県では架橋の推進や、原野だった大槻原(現:郡山駅西)の開墾事業に着手した人物である。

 更にその翌月〔明治9年(1876)一月〕には治愿の前任地である名東(みょうどう)県で参事だった国貞廉平が、愛知県参事となって赴任してきた。国貞は10年(1877)に大書記官に昇任し、13年(1880)には安場県令の転出に伴い後任の愛知県令になっている。治愿は名東県勤務の時、現在の香川県と徳島県の境界で難所であった大坂峠越の道路整備を行っており、その頃から国貞と面識があったのではなかろうか。
 なお、国貞は治愿が退職する2か月前の18年(1885)1月18日に46歳で死亡している。死因は病没と言われるが、『明治の名古屋』には〔『蓬風』には「一軍人に斬殺さる」とあり〕と書かれている。後任の県令は勝間田稔である。

◇基盤整備が時代の要請
 この時代は産業基盤の整備が大きな課題になっていた。
 当時の日本は農業が基幹産業であった。しかし愛知県の河川は流砂の堆積が進んで川底が高くなっていた。用水路の取水口を堆砂が塞いだり用水路へ砂が流入したりして用水が不足し、いったん大雨が降ると大きな水害を引き起こしていた。
 江戸時代末期にはどの藩も財政は破綻状態で、町人や豪農からの献金や御用金でやりくりする状態。それに加えてペリーの来航後は海岸防備の負担が増え、維新の前後は長州征伐や戊辰戦争などの戦費負担にも苦しんだ。このような状態なので、藩が河川や用水の改修を進めて農業振興を図ることはできないまま放置されていた。

 明治になると士族への家禄の支給が大きな財政負担だったので、9年(1876)に家禄の支給を止めて金禄公債証書を発行した。しかし公債の利子では到底生活できず、士族たちは仕事に就いて収入を得る必要があった。新たに農業を始める者には、入植できる土地を用意する必要があり農業用水の整備が必要だ。尾張藩の士族は11年から29年(1878~96)にかけて、北海道の八雲町へ集団入植しているほどである。
 また、新しい産業を興して就労させる必要もあり、近代産業の基盤である港や道路の整備が求められていた。

◇県ができ広域行政が可能に
 明治になると、川や用排水路を整備しやすい環境も生まれていた。
 江戸時代は藩が一つの国であったが、明治4年(1871)に廃藩置県が行われると日本は中央集権国家になり、県の行政は国から派遣された役人が行うようになった。川や用水は長い距離を流れ沿川地域の利害が輻輳するので、江戸時代は藩をまたぐと改修が非常に難しかった。とりわけ三河は幕府領・旗本領・いくつもの小さな藩領に分かれており整備が進めにくい状態であった。しかし明治5年(1872)に愛知県になったことで、県の主導により事業が進めやすい環境になった。

◇明治18年に退職
 このような時代背景のもと、治愿は持てる才能と能力を十分に発揮し、多くの事業を進めることができたのである。
 しかし明治18年(1885)に退職した。

 『名古屋市史』には「十八年三月、立田輪中の工役(くやく)を議し、諧(かな)はずして罷めらる。」と書かれている。立田輪中の工事について自分の意見が入れられないのが不満で退職したとのことだが具体的な内容は書かれていない。
 推測になるが、木曽三川分流計画が原因ではないだろうか。
 御雇外国人のヨハニス・デレーケは明治6年(1873)に来日し、11年(1878)に半月ほど調査して「木曽川下流概説書」を提出して木曽三川の分流が必要との報告を行った。その後、17年(1884)に改修計画の作成が命じられ、19年(1886)頃までに計画書を作成している。

 治愿が退職したのは計画が練られている最中である。計画では立田輪中西側を流れる木曽川を拡幅するため、立田と対岸の高須輪中の堤防を後退させ、併せて立田輪中の東側を流れる佐屋川は廃川にすることになっている。これに治愿は異論があったのではないだろうか。
 デレーケの計画に従って明治20年(1887)から分流工事が始まった。この年、県は治愿に復職を求めたが、治愿は固辞したという。26年(1893)から立田輪中での工事が始まり、その最中の30年(1897)に治愿は死亡し、33年(1900)には「三川分流成功式」が行われている。
 立田輪中は頑丈な堤防で守られるようになったが、輪中から木曽川への排水樋門が無くなり排水しにくくなった。住民たちは分流工事のなかで排水樋門を建設するよう何度も県に陳情したが断られた。このため立田輪中普通水利組合が銀行から多額の借金をして県に納め、35年(1902)に鍋田川へ排水する樋門を完成させている。

 治愿は計画策定中にデレーケ案のこの欠点を見抜き、反対意見を主張したが容れられず退職したのかもしれない。

 治愿が亡くなった2年後、明治32年に有志が政秀寺に顕彰碑を建立した。撰文は治愿が愛知県に赴任した当初の県令で建立時は北海道庁長官をしていた安場保和である。現在は平和公園の政秀寺墓園に移設されている。


「故黒川治愿君之碑」
平和公園






 2024/11/23