黒川(堀川上流部)の名は、愛知県技師 黒川治愿が開削したことにより付けられた。治愿は明治8年から18年までのわずか10年余しか在職していないが、その間に県内各地で数多くの土木工事を行い、県内の利水・治水・交通の便を大きく改善した人物である。 |
経 歴 | 主 な 功 績 | 活躍した時代背景と退職 |
主 な 功 績 |
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◇黒川開削と新木津用水の改修 明治9年から10年(1876~7)にかけて黒川を開削し、16年(1883)に新木津用水の改修をおえた。 これにより名古屋と犬山の舟運が始まり、新木津用水と庄内用水の潅漑区域へ潤沢な用水を送られるようになった。 記念碑 「木津用水改修之碑」……春日井市朝宮公園西。明治18年(1885)建立。 太平洋戦争の金属供出で失われ、昭和28年(1953)再建。 「改修記念碑」……………白山神社(味鋺駅北)参道。明治30年(1897)建立。 「黒川治愿君遺沢碑」……御幸橋(八田川)たもと。明治42年(1909)建立。 「報徳碑」…………………御幸橋(八田川)たもと。明治42年(1909)建立。 ◇熱田湊の改修 明治10年(1877)、浅く大型船が入れない熱田湊の改修を行った。航路部分を浚渫してその土で明治新田を造り、熱田海岸に波止場を設けている。 |
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◇洗堰の改修 明治11年(1878)・16年(1883)に洗堰の改修を行った。 天明7年(1787)に新川を開削し洗堰を設けて、庄内川が一定以上の水位になると新川に放流するようになった。その後しばらくは水害が減り安定していたが、流砂により庄内川の川底が年々高くなり洗堰の半分の高さまで上昇した。その結果大雨が降るたびに越流し、新川沿川地域は水害に見舞われた。 |
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このため明治11年(1878)に洗堰の改修を行ったが、14年(1881)秋の増水時に壊れてしまい修理した。しかし翌15年(1882)秋の増水で再び壊れたので16年(1883)に堅牢な堰に改修した。 記念碑 「修理洗堰碑」…………洗堰の堤防上。明治16年(1883)建立。 |
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◇明治用水の開削 明治12年から18年(1879~85)にかけて開削。 矢作川から取水して西三河南部を潅漑する、幹線延長が52㎞、支線の延長が160㎞の農業用水(現:工業・上水にも使用)。 安城が原(現:安城市)など水が行き渡らず荒野が多かった台地の開発が進み、「日本のデンマーク」と呼ばれる優良農業地帯になった。 記念碑 「明治用水開渠記念碑」……安城市浜屋町西新切。明治13年(1880)建立。 ◇立田輪中の水害改善 明治12年(1879)、新たに川を掘り鵜戸川へ排水、併せて堤防を強化した。 川に囲まれた立田輪中は排水が悪く、北部は高く南部は低い地形であった。このため南部は浸水しやすく北部からの水を阻止するため土盛りするなどして南北の対立が激化していた。排水を改良するため新たに水路を掘って鵜戸川を北へ延伸し、併せて輪中堤防を補強した。 記念碑 「増穿鵜戸川碑」……愛西市新左衛門新田。明治13年(1880)建立。 ◇入鹿池堤防の改修 明治12年から15年(1879~82)にかけて堤防の改修と余水吐の設置を行った。 入鹿池は明治元年(1868)に梅雨の長雨で破堤し、941人の死者と1,471人の負傷者を出した。その後、堤防を築き直したが不十分で、入鹿用水の水量不足と池の堤防の再破堤が懸念されていた。改修により水量・安全性ともに十分なものになった。 記念碑 「入鹿再築碑」……入鹿池の湖畔。明治16年(1883)建立。 ◇矢作川左岸地域の治水 明治15年から18年(1882~5)にかけて、岡崎市付近から下流部の左岸地域で治水工事を行った。 矢作川は天井川なので下流部では水害が起こりやすく、流砂の堆積で農業用水も不足し、従来から問題になっていた。明治15年(1882)に矢作川支流の乙川が破堤し30名の犠牲者が出たため、県会が治水工事を建議したのを契機に改修工事が行われた。乙川や矢作川の堤防補強などを始めとして、菱池の築堤や排水路の開削、用水路の改修、はげ山への植林など広い地域でさまざまな施策が行われた。 記念碑(下記を始め8基) 「三郡輪中治水碑」……岡崎城の南。明治18年(1885)建立。 ◇宮田用水元杁の改修 明治16年(1883)元杁の改修工事を行った。 宮田用水は木曽川から取水して庄内川以西・木曽川以東の地域を潅漑する愛知県最大の用水だが、下流部では水不足に悩んでいた。このため従来より大きな元杁に改築した。 ◇郷瀬(ごうせ)川の改修 明治16年(1883)に郷瀬川の瀬替(せがえ、流路を変えること)を計画したが、国貞県令の死亡で延期になり、治愿退職後の19年(1886)と23年(1890)に工事が行われた。 郷瀬川は犬山東部の丘陵地からの水を集めて現在の合瀬(あいせ)川の経路で新川(開削前は庄内川)へ流れ込む川であった。農業用水にも利用されていたが、豪雨が降ると氾濫しやすい川であった。このため現在のモンキーセンター南付近から新しい水路を掘り、上流部の水は木曽川へ流入するよう改善した。 記念碑 「郷瀬川治水碑」……明治26年(1893)建立。 治愿は「工事担任官吏 元愛知県土木課長 黒川治愿」と記載。 ☆『偉人 黒川治愿傳』 令和3年(2021)、「黒川治愿顕彰会」の発刊。浦野利雄氏が治愿関連の石碑を永年調査してきたが亡くなられ、遺志を継がれた人たちが顕彰会をつくり出版。治愿の経歴等に加え県内の治愿が関連する石碑の写真と碑文を収録。市販はされていないようだが、図書館への寄贈とインターネットでPDF版が公開されている。 |
2024/11/23 |
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