御幸橋たもとに建つ
二つの碑

 八田川に架かる御幸橋のたもとに「黒川治愿君遺沢碑」と「報徳碑」が建っている。この地域は黒川治愿が行った新木津用水の拡幅により新田開発が進み、それをたたえる碑である。共に明治42年12月に建立されたものだ。


    黒川治愿君遺沢碑   報 徳 碑   新木津用水改修の効果



黒川治愿君遺沢碑
 正面に「黒川治愿君遺沢碑」、裏面に「明治四十二年十二月勝川新開佃在八十七名捐貲建」、右側面に「正二位勲一等男爵岩村通俊書」と刻まれている。
 勝川に入植した87名の人々が費用を拠出して明治42年(1909)に建立した碑である。なお「佃」とは開墾して造られた耕作地のことである。

 揮毫した岩村通俊は天保11年(1840)に土佐藩士の子として生まれ、黒川治愿より7才年長である。
 明治2年(1869)に官僚となり北海道開拓使の高官として札幌の建設をした後、各地の県令(原:知事)などを経て明治19年(1886)に北海道庁が設置されると初代の長官となった。このため、円山公園などに銅像が建てられている。その後、農商務大臣・貴族院議員などをつとめて男爵となり、大正4年(1915)に亡くなった。
 治愿が愛知県職員として活躍した明治8年(1875)から18年(1885)までの間は、佐賀県権令・山口地方裁判所長・鹿児島県令・元老院議官・会計検査院長・沖縄県令を歴任しており、治愿との接点は見つからない。愛知県との関係は弟の岩村高俊が、明治23年(1890)から25年(1892)まで愛知県知事を務めているが、39年(1906)に亡くなっており、碑の揮毫をした頃は在世していない。
 接点は不明だが、共に地域の発展に腐心した点では共通している。


正面

裏面




報 徳 碑

 碑の正面には、次のように刻まれている。(ルビと句読点は筆者が付記)

 「勝川字新開之地、數十町荒野薄田(はくでん).不耕者(こと)年久矣、先人曩(さきに)起開墾之業、設灌水之法、当此時本多太蔵等諸子移居於此里、卒先勉播殖(はしょく)、而(しこうして)今一望悉(ことごとく)穣田也、抑(そもそも)諸子努力之効與有力也、然(しかるに)頃日(けいじつ)諸子来曰(いわく)、昔日奴輩(どはい)流離顛沛(てんぱい)而来此地、会蒙(もう)先君之恩顧、安業聊生、若(もし)微先君(せんくん)何有今日乎、仰遺恩之情誰禁、欲請君文銘貞珉(ていびん)、永諗子孫、嗚呼(ああ)愛施無忘者子等庶幾(しょき)、乃(すなわち)不辞録其由、併刻建碑者之姓名於背後、
   明治四十二年十二月    從七位 黒川耕作 識」

正面
 この碑が建てられたのは、新木津用水が拡幅され人々が入植してから25年後で、治愿が亡くなってから12年後である。文章を書いた耕作は治愿の息子なので、直接治愿の功績を賞賛するのでは無く、碑文を依頼に来た村人の言葉や思いを纏める形で書かれている。
 大略、次の内容である。
 「勝川字新開の数10町の土地は、荒野や収穫の少ない田で耕作されないまま永い年月がたっていた。昔の人が開墾を始め灌漑の設備を整備した。その時に、本多太蔵などが移住して耕作に励んだ。その結果、今では見渡す限り豊かな収穫がある田になっている。
 そもそも入植した人々が努力した結果なのだが、ちかごろ村人が来てこう言った。
 昔、故郷を離れて倒れそうになってこの地に来た。治愿の恩顧にであって、今では安心して仕事に励み生計を立てている。もし治愿がなければどうして今があるだろうか。その恩を仰ぐのを誰が禁じ得ようか。あなたに文を書いてもらい、石に刻んで永く子孫に伝えたい。施しを愛し忘れない亊を子たちに請い願う。
 このため、辞退せずその事を書き、併せて碑を建てる人の姓名を裏面に刻む。」

※難解な単語
 薄田=収穫の少ない田、播殖=種をまき苗を植え付けること、穣田=豊かな収穫がある田、
 頃日=ちかごろ、奴輩=やつばら あいつら ここでは入植者たち、顛沛=つまづき倒れること、
 蒙=愚かな者 ここでは入植者たち、微=自分のことをへりくだっていう言葉 ここでは入植者たち、
 聊生=生計を立てる、先君=亡くなった父や先祖 ここでは治愿、庶幾=こい願う、貞珉=石碑

 碑の裏面には、石碑を建立した7人の名が刻まれている。いずれもこの地に入植し、荒野を美田に変えた功労者である。

 碑文では本田太蔵等が入植したと書かれているが、裏面の建立者には太蔵の名はなく、本田千代吉の名がある。入植から25年たち、子どもたちに世代交代した頃の建碑である。


裏面の建立者名
◇黒川耕作とは?
 黒川耕作は、治愿の息子である。

 昭和9年(1934)発行の『帝国大学出身名鑑』では
 明治8年(1875)生まれで、愛知一中(現:旭丘高校)、第一高等学校(現:東大教養学部)、東京帝大文学部国史科を卒業。
 明治35年(1902)から44年(1911)まで愛知県立第三中学校(現:津島高校)教師。『名鑑」発行時点では金城女子専門学校(現:金城学院大学)講師。

 大正4年(1915)の『人事興信録』では、上の記載に加え、
 川瀬三九郞の子として生まれ、明治14年(1881、4歳)に治愿の養子になった。第三中学の教員後、東都貯蓄銀行取締役となった事なども書かれている。




黒川治愿による 新木津用水改修の効果
 それまでの新木津用水は幅2間(3.6m)しかなく、下流部は水不足に悩まされ「旧来水路の極めて狭隘にして下流井組東春日井郡味鋺原、稲口、上條、如意申、春日井等の五村、年として旱害の憂を蒙らさるはなし」(竣工式での知事祝辞)という状態であった。

 狭隘な用水路が3倍の6間(10.9m)に広げられて豊かな水が流れるようになった。それまで旱魃に苦しんだ田が豊かな実りをもたらすようになり、畑が田へ転換され、用水が無いため原野になっているところが開墾された。
 大正12年(1923)刊の『東春日井郡誌』によると、畑の田への転換と山林原野だったところを田に開墾した面積の総計は、719町6反16歩(7.14㎢)という非常に広大なものである。現在の東区(7.7㎢)や熱田区(8.2㎢)に匹敵する広大な田が生まれたのである。
 日本の農家1戸あたりの耕地面積は、近年は機械化が進み規模が拡大して1.96㏊だが、昭和35年(1960)頃は0.88㏊であった。新田開発された土地で、810世帯が生計を立てることが出来るようになったのである。

 改修工事の総事業費は65万円余だが、詳細に調べれば100万円に達するだろうと『東春日井郡誌』に書かれ、一番の出費は原野の開墾などの46万円弱である。それに次いで、支川開削の用地買収費の72,000円余、開墾地への用水路掘削費の46,000円余、小口村(木津用水からの分流点)から八田川合流点までの新木津用水拡張費の28,000円が大口の費用である。


新木津用水拡幅等により増加した新田(大きさは開発面積に比例)
面積は『東春日井郡誌』により「町」未満は切り捨て、明治25年地形図に加筆





 2024/11/19