報 徳 碑
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碑の正面には、次のように刻まれている。(ルビと句読点は筆者が付記)
「勝川字新開之地、數十町荒野薄田(はくでん).不耕者(こと)年久矣、先人曩(さきに)起開墾之業、設灌水之法、当此時本多太蔵等諸子移居於此里、卒先勉播殖(はしょく)、而(しこうして)今一望悉(ことごとく)穣田也、抑(そもそも)諸子努力之効與有力也、然(しかるに)頃日(けいじつ)諸子来曰(いわく)、昔日奴輩(どはい)流離顛沛(てんぱい)而来此地、会蒙(もう)先君之恩顧、安業聊生、若(もし)微先君(せんくん)何有今日乎、仰遺恩之情誰禁、欲請君文銘貞珉(ていびん)、永諗子孫、嗚呼(ああ)愛施無忘者子等庶幾(しょき)、乃(すなわち)不辞録其由、併刻建碑者之姓名於背後、
明治四十二年十二月 從七位 黒川耕作 識」 |
正面 |
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この碑が建てられたのは、新木津用水が拡幅され人々が入植してから25年後で、治愿が亡くなってから12年後である。文章を書いた耕作は治愿の息子なので、直接治愿の功績を賞賛するのでは無く、碑文を依頼に来た村人の言葉や思いを纏める形で書かれている。
大略、次の内容である。
「勝川字新開の数10町の土地は、荒野や収穫の少ない田で耕作されないまま永い年月がたっていた。昔の人が開墾を始め灌漑の設備を整備した。その時に、本多太蔵などが移住して耕作に励んだ。その結果、今では見渡す限り豊かな収穫がある田になっている。
そもそも入植した人々が努力した結果なのだが、ちかごろ村人が来てこう言った。
昔、故郷を離れて倒れそうになってこの地に来た。治愿の恩顧にであって、今では安心して仕事に励み生計を立てている。もし治愿がなければどうして今があるだろうか。その恩を仰ぐのを誰が禁じ得ようか。あなたに文を書いてもらい、石に刻んで永く子孫に伝えたい。施しを愛し忘れない亊を子たちに請い願う。
このため、辞退せずその事を書き、併せて碑を建てる人の姓名を裏面に刻む。」
※難解な単語
薄田=収穫の少ない田、播殖=種をまき苗を植え付けること、穣田=豊かな収穫がある田、
頃日=ちかごろ、奴輩=やつばら あいつら ここでは入植者たち、顛沛=つまづき倒れること、
蒙=愚かな者 ここでは入植者たち、微=自分のことをへりくだっていう言葉 ここでは入植者たち、
聊生=生計を立てる、先君=亡くなった父や先祖 ここでは治愿、庶幾=こい願う、貞珉=石碑
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碑の裏面には、石碑を建立した7人の名が刻まれている。いずれもこの地に入植し、荒野を美田に変えた功労者である。
碑文では本田太蔵等が入植したと書かれているが、裏面の建立者には太蔵の名はなく、本田千代吉の名がある。入植から25年たち、子どもたちに世代交代した頃の建碑である。
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裏面の建立者名
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◇黒川耕作とは?
黒川耕作は、治愿の息子である。
昭和9年(1934)発行の『帝国大学出身名鑑』では
明治8年(1875)生まれで、愛知一中(現:旭丘高校)、第一高等学校(現:東大教養学部)、東京帝大文学部国史科を卒業。
明治35年(1902)から44年(1911)まで愛知県立第三中学校(現:津島高校)教師。『名鑑」発行時点では金城女子専門学校(現:金城学院大学)講師。
大正4年(1915)の『人事興信録』では、上の記載に加え、
川瀬三九郞の子として生まれ、明治14年(1881、4歳)に治愿の養子になった。第三中学の教員後、東都貯蓄銀行取締役となった事なども書かれている。
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