古墳の上に鎮座する神社
白山神社
 白山神社は小高い丘の上に鎮座しているが、この丘は古墳である。
 江戸時代初期に白山藪古墳(現:滅失)にあった白山神社を遷座したのを皮切りに、あちらこちらから遷座して多くの神が祀られる神社になった。

    白山神社   境内の石碑群   味鋺原 三社権現祭



白山神社
 白山神社は白山神社古墳の上にあり、万治2年(1659)に白山藪古墳にあった白山神社をこの地へ遷座し、併せて二子山古墳にあった物部神社もここへ遷座したのが始まりである。
 その後、大正7年(1918)に春日山古墳にあった春日社も合祀され、現在は菊理比売命(くくりひめのみこと、白山神社)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美命(いざなみのみこと、天地創造の神)、可美真手命(うましまじのみこと、物部神社)、天児屋命(あめのこやねのみこと、春日神社)の5柱が祀られている。旧社格は郷社である。
 境内社は、神明社・国府宮社・金刀比羅社・津島社・天神社(由緒碑には記載がない)・御鍬社・熱田社・秋葉社・厳島社が祀られている。

 毎年10月に行われる大祭では、相宮がある御旅所古墳まで神輿渡御が行われる。なお、寛延元年(1748)までは春日山古墳への渡御であった。






境内の石碑群
 参道には、多くの碑が建っている。

◇由緒碑
 神社の由緒を伝えるものだが、台座の石は春日山古墳のものという。


◇贈大講義丹羽翁之碑
 明治20年(1887)に建てられた、丹羽新次郎政栄(まさひで)の功績をたたえる碑である。政栄はこの地域の庄屋で地域の発展に尽力した人である。


◇御嶽山大神碑
 春日井出身の覚明が開山した御嶽教の碑である。

◇改修記念碑
  明治30年(1897)に建立された、新木津用水の改修を記念した碑である。     (原文の旧字を新字に改め、句読点とルビを付加した)

 古人云、苦ニ在テ而テ後ニ楽ヲ得ル者其感最モ深□ト□□ル哉。我村民□如キ、艱苦ニ在ル久シカリキ。本村旧ト味鋺原新田ト称テ、旧今尾藩ノ領地久□、水田僅ニ四拾余町他ハ皆畑圃及ヒ山林原野ノミ。是ヲ大縄場ト唱フ。年々秋季、検見(けみ)ト称シ藩吏員ヲ派出シ、収穫ヲ量リ租額ヲ定ム。大概貢租弐百石、毎歳大差ナシ。
 寛文年間、木津井組ヲ編成シ潅漑ニ便ス。後又春日井原新田、上條新田、如意申新田、稲口新田ヲ合テ新木津井末五箇村ト云。後幾星霜ヲ経テ天保年間ニ至リ、用水欠乏シ耕鍬艱苦ス。明治二年、名古屋藩大参事之ヲ愍(びん)察シ、丹羽郡丸山氷室谷ヲ貫通シテ潅漑ヲ便セントスルノ企図アリ。惜□会一廃藩置県ノ令出ツ。事果サス。後数々経営算画シ、為メニ費ス所数千金、一ノ功績ヲ得ス。


 由テ相議シ、木津杁前進水ヲ倍増シ、一大閘門ニ改築アランコトヲ県庁ニ哀願ス。土木課長黒川治愿(はるよし)、其困苦ノ情状ヲ察シ、杁前ニ突堤ヲ築キ、西元杁樋ヲ改造及ヒ水路ヲ開通シ、以テ水利ヲ便シ兼テ通船ノ用ト為サントス。既ニ閘門改造成ントス。而(しこうし)テ井組内不服者アリ。亦(また)果サス。歎スベキナリ。十五年一月、本村初メ五箇村協同シ、伏込工事費金四千円ヲ官ニ納レ、閘門ノ改造ヲ請願ス。県令国貞廉平許可シ、土木課長ヲシテ営築セシム。同年四月落成ス。是ニ於テ閘口既ニ増大ヲ得タリト雖(いえど)モ、井筋各村ノ杁腐朽シ且水路狭隘ナルヲ以テ、増水ノ功ノ視ル能ハス。然リト雖モ累年ノ費額ニ力盡(つ)キ、支出ニ堪ヘス。是ヲ以テ勧農義社ニ属托シテ水路ノ改修ヲ謀ントス。時ニ十六年五月也。
 適(たまた)マ本村青原寺ニ本郡農談会ノ挙アリ。県令国貞廉平、郡長堀尾茂助臨場。五箇村ニ諭テ曰ク。勧農義社ニ托シ村利ヲ失ンヨリハ、村民奮興企図スルニ如(し)カスト。乃(すなわ)チ村中熟慮、恊議金弐万円ヲ官ニ納レ改修ヲ請願ス。県令之ヲ許シ、属官岩本賞壽、上泉信察、樋管係山田元信、測量掛荒木謙三等ヲ派シ、小口村水分自在立切ノ新築及ヒ新木津川床ノ改広、其他改造新設杁樋大小八十余、橋梁六十余、又大山川伏越ヲ転シ立切トシ、朝宮立切ヲ新設シ、八田川ヲ開広シ西堤防馬踏(ばふみ)二間、東堤防馬踏一間トナス等、前後費消スル所無慮数万金。然レトモ之レカ為メ、本村及ヒ関連諸村、水利疎通潅漑浹潤、乾畑変シテ水田ト為リ、原野ヲ開墾スル数町歩。嗚呼、今ヤ旧味鋺原ノ面目ニアラサル也。
 二十二年村制ニ拠リ味美村ト改称ス。往時ノ困阨ヲ忘レ豊饒ノ楽ヲ得、皆欣々(きんきん)然相語テ曰ク。本県知事及ヒ土木課長ノ設計宜(よろし)キヲ得。其功績偉大ト謂(い)フヘシ。而テ是(こ)レ亦(また)聖沢ノ普及スル所実ニ知ルヘキナリ。村中相謀リ、聊(いささ)カ改修事業ノ経歴ヲ叙シテ石ニ勒(ろく)シ、以テ後世子孫ニ伝ヘント欲スト云爾(いうのみ)
      明治三十年十一月

 意訳すると、大略次の内容である。

 かつては味鋺原新田と呼ばれ、水田はわずか40町歩しかなく、ほかは畑や山林原野だった。定額の年貢をかけることができず、秋になると収穫を見て決められたが、大抵は200石ほどだった。
 寛文年間(1661~73)に木津井組がつくられ潅漑が良くなった。後には春日井原新田など5つの新田は新木津末五ヶ村と呼ばれた。天保年間(1830~44)になると用水が不足し耕作に苦しんだ。
明治2年(1869)に藩が状況を哀れんで、丸山(現:犬山駅北東)から潅漑用水を引く計画を立てたが、廃藩置県により頓挫した。
 このため、木津用水元杁を改築して取水量を増やすように県に陳情したところ、土木課長の黒川治愿が窮状を理解し、元杁前に導流堤を造り、西元杁を改築し、水路を広げて流量を増やすとともに、舟運路としても活用する計画をたてた。しかし元杁の改築をしようとしたところ、井組内に反対がありできなかった。
明治15年(1882)1月に味鋺原新田など5ヶ村が、元杁の工事費4,000円を県に納入して改築をお願いした。県令(現:知事)の国貞廉平が許可し、黒川治愿に工事をさせ4月に完成した。しかし、水路沿いの杁は腐朽し水路幅も狭く流量は増えなかった。
 もう村ではこれ以上の資金を拠出することができず、勧農義社に水路の改修を委嘱しようとした。そのようななか、16年(1883)5月に村で行われた農談会に県令などが出席し、勧農義社に委嘱するより奮起して自分たちで努力してはどうかと諭した。村で協議した結果、20,000円を県に納め改修を請願した。これをうけ県は技師を派遣して工事を始めた。小口村にある木津用水と新木津用水の分流点に立切を新設し、新木津用水の幅を広げ、80余の杁を改造・新設し、60余の橋を架け替えた。大山川との交差点は伏越を立切に変え、朝宮に立切を新設し、八田川は拡幅と堤防の補強をした。これらに数万円の費用がかかった。この工事により潤沢な用水が流れるようになり、畑は田に変わり、新たに開墾された原野が数町歩あり、今では昔の味鋺原の面影はない。22年(1889)には村制の施行で、村の名も味美村に変わった。
 昔の苦しみを忘れて豊かな生活ができるようになったのは、知事や土木課長の偉大な功績と考え、事業の経歴を石に彫り後世に伝えることにした。

◇忠魂碑
 昭和10年(1935)8月に建立され、戦争で従軍し亡くなった方の鎮魂を祈念した碑である。


◇鎮魂碑
 大正昭和年代における事変や戦争において異国の地に出征された方々を慰霊し、日本の繁栄と世界の平和を祈念して建立した。




味鋺原 三社権現祭
 『尾張年中行事絵抄』に三社権現祭が絵入で次のように紹介されている。

 神輿渡御が終わると、氏子たちが馬之塔を出す。神社の前は石段になっていて高く険しい。そこを、馬を走らせて駆け上り駆け下りる。非常に危なく見える。
 下の平地に着くとくつわを取っていたものは、馬の前足を自分の肩に乗せて獅子舞のようにかぶって、馬を自由に取扱う。実に珍しい。

 非常に珍しい祭だ。味鋺原だから今の味美で行われた祭りだが、どの神社だろうか。三社権現という表記は他では見つからないが、白山神社の可能性が高い。この神社で祀る白山神社と物部神社、当時は春日山古墳に祀られていた春日神社の三社の祭ではないだろうか。高い階段があるという条件も一致している。


『尾張年中行事絵抄』


左の拡大図
馬の前足を背負っている




 2024/10/04