奈良時代の創建
成 願 寺

 成願寺は奈良時代に行基が開山したと言われる、この地方では非常に古い寺である。平安後期の作と推定される本尊の十一面観音像は名古屋市の文化財に指定されている。
 かつては大きな寺だったと伝えられ、戦国時代には『信長公記』の著者である太田牛一が幼少期はここで成長したが、江戸時代末期には一時期衰退していたようである。昭和初期には矢田川の付替で現在地へ移転し、近年は本堂などが非常に斬新なデザインで建て直され、時代の先端を行くお寺といった雰囲気がある。

    奈良時代の創建   山田重忠像?



奈良時代の創建
◇天平17年開山……大きな古刹
 慈眼山成願寺は天台宗の寺で、天平17年(745)に行基が開山した。

 昔は安食莊の荘司などを務め、承久の乱などで活躍し『平家物語』や『源平盛衰記』に名を残した安食(葦敷・山田)一族の菩提寺だったこともあり非常に大きな寺であった。寺の名は、安食(山田)重頼の法号である常観坊隆憲から「常観寺」であったが、後に「成願寺」に変わった。
 本尊は行基作と伝えられる十一面観音で、『金明録』(猿猴庵日記)には、安永8年(1779)2月と文化7年(1810)2月に本尊の開帳をしたことが記録されている。
 現在、この像は平安後期の作(行基は奈良時代の人)とされているが、市内でもっとも古いものの一つで昭和48年(1973)に市の文化財に指定されている。像高165㎝の一木造の像である。


十一面観音像
(旧本堂の時)
◇戦国時代……幼少期の太田牛一が入門
 『信長公記』の著者太田牛一は幼少期にこの寺で成長した。その後、還俗して織田信長に仕え、弓の腕が認められてに弓槍六人衆の一人となった。『信長公記』のほかにも『天正記』『関ケ原軍記』などの著作も残している武人でかつ文人でもあった人物である。

◇江戸時代末期……一時衰退
 『尾張徇行記』に「往古ハ尤(もっとも)サカヘシ伽藍ニシテ、中切福徳小田井等ノ寺院ハ皆此寺ノ坊舎ナリトカヤ」と書かれているほどである。しかし徇行記が編纂された江戸時代後期は「時ウツリ物カハリテ 今ハ草堂ノアサマシケナルサマ、貧民ノスミカト等シ」という状態であった。
 また『尾張名所図会』には、福徳村にある聖徳寺の末寺になっていて「行基菩薩作の十一面觀音を本尊とし、大伽藍なりしが、衰微して今は草堂のみ殘れり。暦應(1338~42)の頃の古経ありしが、今散亡して所々にあるよし信景いへり。」と書かれている。

◇昭和・平成……移転と建替
 寺は今より北の場所に建っていたが、昭和初期の矢田川付替工事で河川敷になり現在の場所へ移転している。
 木造の本堂であったが、平成21年(2009)に近代的で立派な建物に改築された。



山田重忠像?

◇『張州府志』
 寺に山田重忠像と言われるものがあるが、『張州府志』(編纂:1700年代半ば)には「寺有山田二郎重忠像、里老云、古者村人呼為賓頭盧像、中世以為山田二郎重忠像、今観其像則全是羅漢像也、按此寺本属葦食荘聖徳寺、已有重頼像、則恐好事之者附会為之而耳」と書かれている。
 概略次の主旨である。
 村の年寄りの話では「昔は賓頭盧(びんずる、十六羅漢の一人)の像と呼んでいたのが、中世に山田重忠の像と呼ばれるようになった。」とのことで、その像を見ると羅漢像そのものである。聖徳寺(福徳村)に重頼の像があるので、恐らく物好きな人がそれにこじつけて重忠の像と言い出したのであろう。

◇『尾張名所図会』
 また、『尾張名所図会』(編纂:江戸時代末期)には次のように書かれている。
 「(聖徳寺にある)重頼の像、叉成願寺にある山田二郎重忠の像、ともに古像にて雅趣ありといへども、剃髪法衣を着したれば、更に武將の姿とは見えず、全く羅漢の像をあやまりつたへしものならんと先輩もいひ置きたり。」

◇『感興漫筆』
 『感興漫筆』の著者である細野要斎は安政2年(1855)3月に成願寺を訪問し、この像を見て次のように記録している。
 「此寺に山田次郎の肖像とて、仏殿の西に安置せり、常には扉を閉たり。今日寺僧は外出す、村民集り居る故、これに告げて自ら扉を開て見るに、その像は僧形にして大抵左のごとし。高さ二尺有余。(図、略す)
 壁間に半連を掛く、その文、左のごとし。
   山田次郎重忠像  承久三辛巳六月十二日
            於嵯峨野生害法名建正
 此像は重忠の像に非ず、開山和尚の像なりといふ説あり。然りや否や詳なる事を知らず。」



 2026/03/18