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◇承久の乱……朝廷側で戦い自害
建保7年(1219、承久元年)に3代将軍の源実朝が暗殺されると、幕府の執権である北条氏が実権を握るようになり朝廷との溝が深まった。
承久3年(1221)5月15日、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した。上皇方は、鎌倉方に付く武士は少なく簡単に討伐できると考え行動を起こしたのだが読み違いであった。鎌倉方は総勢19万人の軍勢を組織して京へと向かった。迎え撃つ朝廷側はわずかに2万人程度の武士しか集まらなかった。この時重忠は、一族郎党を率いて上皇方に加わっていた。
上皇側は尾張川(木曽川・長良川など)に沿って広く布陣し鎌倉方の武士を迎え撃つ作戦だった。少ない兵力を分散してしまったのだ。
重忠たちは、今の大垣市内の墨俣川(長良川)で幕府軍の来襲に備えていた。6月5日から6日にかけて一部で戦闘が始まったが圧倒的な兵力差を見て、各武将たちは瀬田川で迎え撃つことに方針を変えて退却し始めた。重忠たちは退却を潔しとせず、少数で幕府軍に立ち向かうも力及ばず、ついに退却し13日から14日に瀬田川で再び戦ったものの惨敗を喫した。
都に戻り、後鳥羽上皇をたずねるが、上皇は門を堅くとざして会うことを拒否した。上皇に裏切られたことを知った重忠は、大声で怨嗟の声をあげて立ち去った。
嵯峨まで落ちのびたが、敵の追手を息子の重継が防いでいるあいだに重忠は自害した。56歳であった。重継は捕らえられた後殺され、孫の兼継は14歳で捕えられ、越後の国に流された。開戦からわずか1か月で乱は終わり、7月に後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島、土御門上皇は土佐国に流された。
歴史の教科書にも出てくる大きな事件の荒波が、この地も襲っていたのである。
なお、山田重忠はその功績により大正6年に正五位を贈られた。
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