水害に泣かされた川中三郷
矢田川付替

 北区の福徳・中切・成願寺は、かつて北は庄内川、南は矢田川に挟まれた輪中の村で水害に泣かされてきた。福徳の西で矢田川が庄内川へ流入するが、角度が大きいため滑らかに合流できず水害が起きやすかったのである。
 昭和の初め、両河川が寄り添って流れて合流するように大工事が行われて、今の姿になった。


    福徳・中切・成願寺は輪中の村   矢田川を滑らかに庄内川へ



福徳・中切・成願寺は輪中の村
   北区の地図を見ると、守山区に接して矢田川と庄内川にはさまれた「米が瀬」が北区になっている。区界は川などが多いのに、ここは不自然な境界になっているが、これは矢田川の流れが変わったからである。

◇城北地域は低湿地帯
 北区から西区にかけて庄内川・矢田川といった大河や、地蔵川・生棚川などの中小河川が集中している。はるか昔、これらの川が運んできた土砂が堆積し陸地となり、小高い所に人が住み耕作を行うようになった。元は川であった低湿地なので、大雨が降ると川からあふれた水は耕地を襲い人家を流し、川筋はたびたび変わっていった。安定した生活をするには、川から家や耕地を守らなければならない。いつの頃からか、人々は、川を一定の場所に押し込めようとして堤防を築くようになった。
 しかし、川の勢力のほうが強い土地では、家や耕地をぐるりと取り囲む堤防を築いて人がその中に閉じこめられた生活を余儀なくされた。このような土地を輪中と呼ぶ。木曽三川の下流域では特に発達し立田輪中などが有名であるが、北区にも輪中の村があった。

◇川中三郷……昔の矢田川は今より南
 今、この付近の矢田川は庄内川に隣接して流れているが、以前は今の庄内用水路の一本北、辻コミュニティセンターから城北つばさ高校(元は愛知工業高校があった場所)にいたる道路とその北側一帯が川筋であった。成願寺・中切・福徳の三か村は一つの輪中の中にある村で、今は矢田川に隔てられている米が瀬も成願寺村の一部で陸続きだったのである。これら3か村は、庄内川と矢田川の中にあることから「川中三郷」と呼ばれていた。


『尾張国図』 江戸時代
◇水害に泣かされた歴史
 輪中の暮らしは川との戦いの歴史であった。川中三郷は何度も濁流に襲われ、田畑は砂礫が覆い、家は流されている。

・明治元年の水害
 明治元年(1868)8月2日朝、この地方を襲った台風により瀬古の石山寺(現:守山区瀬古東一)付近で矢田川の堤防が決壊した。
 流れ込んだ激流は、瀬古と成願寺の境界であった輪中堤防も破壊して川中村に浸入してきた。成願寺の家々は流されて中切や福徳に漂着した。水浸しになっている輪中の水を排水するために、福徳で庄内川の堤防を切り開いたところ家は水とともに再び流れ出し、大野木(現:西区)まで2・3戸が流されていった。
 また、石山寺の墓地を激流が洗い流したので、土葬されていた遺骨や死体が流出し中切や福徳の竹や木に5~60体が引っかかり、鬼気迫る光景となった。

・明治17・22・44年にも水害
 その後、明治17年(1884)・22年(1889)にも大きな水害を受け、44年(1911)には福徳で庄内川と矢田川の両方の堤防が決壊して、全戸が屋根まで浸水するという惨事となった。




矢田川を滑らかに庄内川へ
 矢田川は福徳の西で庄内川に流入していた。両河川の激流がぶつかり合う合流点は乱流となって流れを妨げ、堤防をえぐるので決壊しやすい。このため、矢田川を庄内川に沿って流下させ、滑らかに合流させることにより乱流を防ぎ、流下能力を向上させることが計画された。

 昭和5年(1930)8月に事業実施が決まった。しかしすぐには着工できなかった。付け替え工事を行うと川中村の面積約110町(109.0㏊)のうち65町(64.4㏊)が新しい矢田川になり、残るのは45町(44.6㏊)だけだからである。


大正9年 1/25000

 これでは農業で生計を立てることはできず約130戸のうち約100戸は失業してしまう。また土地の買収価格は坪あたり1円が提示されたが、農民たちは3円を要望した。10月16日に村会を開いたが、1円推進派の議員が改修工事だけに関する議案を提出して即時可決したので、村内は険悪な雰囲気になり村長と推進派の議員は辞職に追い込まれた。10月21日に県へ陳情したが、「土地の相場は2円だが公共事業なので1円で辛抱してほしい。無償交付の土地も勘案すれば1円45銭ほどになるし、工事終了後は耕地整理をして振興を図る」との回答であった。
 その後、県議の仲裁などもあり村民が協議した結果、耕地整理組合を設立することを条件に工事実施を受けいれることになった。

 11月7日に起工式が行われ、矢田川の付替え工事が始まった。
 土砂を運ぶトロッコの線路が網の目のように張り巡らされ、昭和初期の大不況のなか、失業対策事業として毎日1,000名余りの人が働いていた。村人もたくさん働きに出て、男は主に土を鍬でならす仕事を、女は千本突き(土を叩いて固める作業)を担当した。旧堤防を崩した土は、練兵場(現:名城公園)の盛土にも使われたという。

 2年後の昭和7年(1932)11月30日にこの大工事が完成し、これまで川に隔てられていた川中三郷は名古屋市と陸続きになった。これにより成願寺の一部であった米が瀬は、新たな矢田川により隔てられて今のようになったのである。

 中切町にある神明社や天神社は高い土盛りの上に建っているが、これはかつての矢田川北岸の堤防上にあったのがそのまま残されたものである。


昭和7年 1/25000


昭和49年 1/25000





 2026/02/20