矢田川を滑らかに庄内川へ
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矢田川は福徳の西で庄内川に流入していた。両河川の激流がぶつかり合う合流点は乱流となって流れを妨げ、堤防をえぐるので決壊しやすい。このため、矢田川を庄内川に沿って流下させ、滑らかに合流させることにより乱流を防ぎ、流下能力を向上させることが計画された。
昭和5年(1930)8月に事業実施が決まった。しかしすぐには着工できなかった。付け替え工事を行うと川中村の面積約110町(109.0㏊)のうち65町(64.4㏊)が新しい矢田川になり、残るのは45町(44.6㏊)だけだからである。
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大正9年 1/25000
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これでは農業で生計を立てることはできず約130戸のうち約100戸は失業してしまう。また土地の買収価格は坪あたり1円が提示されたが、農民たちは3円を要望した。10月16日に村会を開いたが、1円推進派の議員が改修工事だけに関する議案を提出して即時可決したので、村内は険悪な雰囲気になり村長と推進派の議員は辞職に追い込まれた。10月21日に県へ陳情したが、「土地の相場は2円だが公共事業なので1円で辛抱してほしい。無償交付の土地も勘案すれば1円45銭ほどになるし、工事終了後は耕地整理をして振興を図る」との回答であった。
その後、県議の仲裁などもあり村民が協議した結果、耕地整理組合を設立することを条件に工事実施を受けいれることになった。
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11月7日に起工式が行われ、矢田川の付替え工事が始まった。
土砂を運ぶトロッコの線路が網の目のように張り巡らされ、昭和初期の大不況のなか、失業対策事業として毎日1,000名余りの人が働いていた。村人もたくさん働きに出て、男は主に土を鍬でならす仕事を、女は千本突き(土を叩いて固める作業)を担当した。旧堤防を崩した土は、練兵場(現:名城公園)の盛土にも使われたという。
2年後の昭和7年(1932)11月30日にこの大工事が完成し、これまで川に隔てられていた川中三郷は名古屋市と陸続きになった。これにより成願寺の一部であった米が瀬は、新たな矢田川により隔てられて今のようになったのである。
中切町にある神明社や天神社は高い土盛りの上に建っているが、これはかつての矢田川北岸の堤防上にあったのがそのまま残されたものである。
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昭和7年 1/25000

昭和49年 1/25000
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