かつて日々津村から流れ出し、沿川地域の排水を集めて露橋村で笈瀬川へ流れ込んでいた徳左川という川があった。水害に悩む人々を助けるため、安井徳左ヱ門が開削したので「徳佐」川と呼ばれた。 |
徳左川とは? | 開削時期は不明 | 今も残る徳左川跡 |
徳左川は、明治33年(1900)の5万分の1地形図では、日々津村から流れ出し南東へと田畑の中を流れていって、北一色の北を通り笈瀬川へ流入している。 大正13年(1924)の『名古屋新地図』では、前年に中村遊廓ができており、その造成時に土取した跡に生まれた遊里ヶ池から流れ出し、遊郭の南西を通って流れている。 この遊廓南西の所に架かっていた橋は「幸橋」で、親柱が一本だけ現地に保存されている。 |
幸橋の親柱 |
現在の地形 国土地理院デジタル標高地図で作成 |
1/5000 明治33年 日々津村から流れ出している |
『名古屋新地図』 大正13年 遊里ヶ池から流れ出している |
開削時期は不明 |
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この川は人工的に造られた川である。造ったのは安井徳左ヱ門で、その名前から徳左川と呼ばれている。 開削時期は江戸時代の文献では見つからず、不明確である。近年発行の本や記念碑では次のように書かれている。 ◇『中川区史』 「文久年間(1861~4)水害を除こうとして、私財を投じ水路を開いた。」としている。 ※これは明らかに間違いと考えられる。弘化3年(1846)に描かれた「北一色村絵図」や1792年から1822年にかけて編纂された『尾張徇行記』に「徳左川」という名称はないもののこの水路があるので、それ以前の開削である。 ◇『中川区の歴史』(著:山田寂雀) 開削年について触れていないが、安井徳左ヱ門は文久年間(1861~4)の豪農としている。 ※『中川区史』と同様に間違いと考えられる。 ◇『中村区の歴史』(著:横地清) 開削年について触れず『中川区の昔をたずねて』の記載を紹介している。次の内容だ。 「安井徳左エ門 寛政2年(1790)に歿した。後裔はない。当時の石高でいえば、約八百石余りの田地田畑を持った豪農である、現在の愛知町全部を所有していたともいう。宝暦年間尾張南部開発のために当地域は水はけが悪くなり百姓の難儀するようすを見るに忍びず、私財を投じて排水路を作った。」 ※この記載の根拠は不明だが、寛政2年以前の開削なら『尾張徇行記』や村絵図と矛盾しない。 ただ「約八百石余りの田地田畑を持った豪農である、現在の愛知町全部を所有していた」と記されているが、この部分は疑問が残る。愛知町は北一色村の区域とほぼ同じだが、『尾張徇行記』の記載では村の石高は新田を入れても624石余しかなく、しかも「午改戸九十三、此内高持八十二 無高十一」と書かれ、ほとんどが自作農なので愛知町で800石余を所有している事はあり得ない。他の村に広大な土地を所有していたのであろう。 ◇神明社(中川区愛知町)の安井徳左ヱ門頌徳碑(昭和2年建立) 徳左ヱ門は元文3年(1738)に誕生し、寛政3年(1791)に亡くなった。開削年については直接触れていないが、宝暦年間(1751~64)になると地域の排水が悪くなったので開鑿したとしている。 ※村絵図などと矛盾していない このように資料から開削年を断定するのは無理があり、村絵図の作成年や『尾張徇行記』の編纂年より以前に開削されているのは確かであるとしか言えない。『中村区の歴史』と「安井徳左ヱ門頌徳碑」が他の資料との矛盾がなく、信憑性が高い。 |
2024/04/27 |
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