徳左川と縁の深い
神明社(北一色村)

 広い境内に鬱蒼と樹がそびえる落ち着いた神社である。昔はすぐ北を徳左川が流れ、境内には開削者の顕彰碑も建っている。

    神 明 社   境内に建つ石碑



神 明 社

 神明社の祭神は天照大御神で、旧社格は村社。『尾張徇行記』に「神明社 界内年貢地 熱田祠官掌之」「熱田社人長岡数太夫書上帳ニ、神明社内一畝十二歩年貢地、末社熊野社」と書かれている神社である。

 鳥居をくぐると石の太鼓橋があり、その向こうには蕃塀がしつらえられている。蕃塀の前に太鼓橋があるのは珍しく、生い茂る巨木と相俟って風格を感じる。

◇蕃 塀
 蕃塀は大正10年(1921)1月に奉納されたもので、裏面中央に「名古屋市入江町 吉乃家 安井□三郎」、右に「名古屋市 山田家 勢州館 吉乃家部屋 末中村 本武蔵」、左に一回り小さな字で「名古屋市 吉蔵 滝乃家 名古屋館 中券番 加藤吉松」の文字が彫られている。
 入江町は広小路通の一本南の東西筋で、伏見通から長者町までの区間である。
 勢州館は笹島交差点から少し東の広小路南側にあった旅館、名古屋館も駅前にあった旅館で、中券番は名古屋にあった十六連妓(芸者置屋の団体)の一つで事務所は入江町の少し東の住吉町にあった。



 昭和12年(1937)刊行の『歓楽の名古屋』には中券番について次のように書いている。
 「これまた廣小路を狹んで浪越連と対立し、客筋も同じくしてゐる。昔は東雲連といって一つ鍋をつゝき合った仲、別れて浪越といひ中券といふ。藝虫は舞踊の梅家しな(60)三味線の若鈴のぼん助(38)唄の可富久花蝶(38)といつたところ、八十四軒、三百四十裙」〔()内は年齢〕

 名古屋都心や駅前の旅館・料亭・券番が奉納したようだ。この神社とは離れていて氏子とは考えにくいが、どんな縁で奉納したのだろうか不思議である。

◇特色のある拝殿
 拝殿は入母屋式の屋根を二重垂木で支えており重厚な感じを受ける。
 その奥に幣殿と本殿があるが、幣殿の拝殿につながる所には白布がかけられ中が窺えないようになっている。他の神社ではあまり見かけない。
 また幣殿の左入口戸には金色の大きな飾り金具が付いている。


◇境内社
 本殿右手には境内入り口に大きな標柱が建つ熊野神社が鎮座するが、標柱に比し意外に小さな社である。
 入口の標柱が境内社にしては大きいのは、裏面の奉納者名に「日露戦争で貫通銃創を受けた陸軍二等兵である」旨付記されているからであろう。
 その横に金玉稲荷と大海龍神社が鎮座している。
 本殿左手には津島神社・洲原神社・秋葉神社が並んでいる。また境内左手には御霊社が鎮座している。


熊野神社


金玉稲荷社


大海龍神社


津島神社・洲原神社・秋葉神社


境内に建つ石碑

 境内にはいくつかの石碑が建っている。

◇出征記念碑
 昭和2年(1927)に建立された。日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・シベリア出兵に従軍した人の兵科や氏名などが彫られている。
 同じ区画には小さな「日清戦争紀念松」と彫られた石もあるが、松は枯れて石碑だけ残ったようである。


出征記念碑
◇安井德左ヱ門翁頌徳碑・徳佐橋の親柱
 徳左川を開削した安井徳左ヱ門の功績を記した碑で、同じ区画に徳左川に架かっていた徳佐橋の親柱が保存されている。
 碑には次のように記されている。
 「翁ハ元文三年尾張國愛知郡北一色村ニ生ル 家代々豪農ニシテ其領有セシ田畑モ八拾余町歩ニ及ヒ今ノ當町宇浦山弐拾五番以下ノ宅地併セテ参反五畝拾八歩ハ是レ翁カ居宅ノ跡ナリトイエハ以テ當時ニ於ケル安井家ノ盛大ナリシヲ想見スヘク今ヨリ百年前ニ在リテハ其ノ一部ニナホ曩日ノ舊態ヲ遺シタリキ
 翁は志夙ニ公共事業ニ篤ク今ノ徳佐川水路ハ實ニ其開鑿ニカカルモノナリ 蓋シ宝暦年中熱田新田耕地の開墾セラルルヤ露橋北一色米野等ノ一帯ニハ爲メニ悪水停滞シテ米作毎ニ意ノ如ク稔ラサルニ至リ頗ル農民ノ患タリシカ翁ハ之ヲ坐視スルニ忍ヒス乃チ私財ヲ損チテ水路ヲ穿チ以テ排水ノ途ヲ講シタルナリ 斯クテ其功成リ茲ニ積年ノ災害全ク除カレタルノミナラス更ニ幾多ノ良田ヲ得テ里民ヲ利セシコト尠カラス時人其水路ニ名クルニ徳佐川ヲ以テシ其新タニ成レル田ヲ呼ンテ新田ト稱セシモノ即チ大ニ翁ヲ徳トシテ敬慕措ク能ハサルモノアリシカタメナリ
 翁ハ又当時多数農民ノ窮乏セルヲ救恤セントシテ東奔西走席暖マルノ暇ナク為メニ心身ヲ過労シ寛政三年正月拾日享年五拾有四歳ヲ以テ終ニ病没シヌ 翁ヲシテ猶長生セシメハ更ニ伝フヘキ□世ノ事績ヲ遺セシナランヲ実ニ惜ムヘシトナス
 嗚呼此人ニシテ此徳アリ余慶永ク其裔ニ及フヘキヲ不幸其嗣絶エテ子孫ノ後ニ存スルモノナク爾来春風秋雨徒ラニ翁ノ墳塋ヲ弔ヒ今ヤ翁逝イテヨリ百参拾七ノ星霜ヲ経タリ 而カモ時勢ノ進運ト都市ノ発展ニ伴フ土地ノ変改甚タシキモノアリ翁ノ遺功モ或ハ為メニ漸ク湮海スル日アランコトヲ懼ル 因テ今茲ニ有志相図リ翁カ頌徳ノ碑ヲ建設して其功績ヲ記念シ永ク其徳ヲ後昆ニ伝フル所アラントス
  昭和弐年八月
   前文部政務次官従四位勲三等田中善立 額字
   帝国在郷軍人会愛知分会長陸軍歩兵中尉正八位近藤正次郎 撰書」

                         ※旧字を新字に置換、□は判読できなかった箇所

 概略次の意である。
 元文3年(1738)に北一色村で生まれた。生家は80町(79㏊)余りの農地を持つ豪農で、屋敷は3反5畝18歩(1,070坪=3,530㎡)あり、100年ほど前にはその一部が昔の姿を残していた。
 公共事業に強い関心があり、徳左川を開削した。宝暦年間(1751~64)に熱田新田ができると露橋・北一色・米野村は排水が悪くなり米が不作となって農民が困った。これを見て私財をなげうって排水路を開削したところ、災害が減っただけでなく多くの良い田ができ人々の利益となった。人々はその排水路を徳左川と名付けた。
 窮乏する農民を救うために盡力したが、過労で寛政3年(1791)1月10日に54才で亡くなった。子孫はなく、都市化で周辺の様子も変わり、その功績も忘れ去られてしまう恐れが出てきた。このため有志が碑を建てた。

 ※宝暦年間(1751~64)に熱田新田ができ排水が悪くなったとしているが、熱田新田は正保4年(1647)に開発されており100年前の事である。新田ができてからの100年間に、笈瀬川に土砂が堆積して流下能力が低下し、低湿地では氾濫が頻発するようになったという意味かも知れない。
 なお、流下能力の低い笈瀬川の負担を軽減するため、江戸時代初期に露橋村で分流して現在の山王橋上流で堀川に放流する分水路が造られている。それでも十分ではなかったので、1711年(1741年説もあり)に少し下流の二女子村で分流して尾頭橋上流で堀川に放流するバイパスも造られた。これに加えて徳左川が地域排水改善のために開削されたのである。

 親柱が残る徳佐橋は、神社の北を東西に通っていた日置橋から烏森を結ぶ幹線道路に架かっていた橋である。なお、その後の都市計画道路整備により、現在は大須通になっている。


安井德左ヱ門翁頌徳碑

徳佐橋の親柱


『名古屋新地図』 大正13年
薄い太線は当時の都市計画道路予定地




 2024/04/28