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◇どちら側を拡幅?
では、道のどちら側を拡げたのであろうか。四間道の拡幅以前の道幅や道のどちら側を広げたかの記録はない。
これまでは、道路の東側に火災前年の元禄12年(1699)に建築された蔵が残っていたことから、西側を広げたのではないかと言われてきた。
しかし、道を見ると不自然な所が残っている。五條橋筋との交差点から南約30mの区間は道幅が狭くなっているのだ。北に延びる塩町裏の道幅とほぼ同じで道路の線形も自然につながっている。拡幅以前の道はこの幅だったのではなかろうか。
元の道幅は2間半(4.6m)で、拡幅部との凹凸から、東側に2m、西側に1m程度広げられたと考えられる。
普通一ブロック単位で行われる拡幅が、途中で終わっているのはどうしてだろうか。
火災前の『名古屋城下図』を見ると、今、道幅が狭い所の西側は水埜弥三右(水野弥三右衛門)という武士の屋敷になっている。町屋は狭い敷地にびっしりと家が建っているが、武家屋敷は広い敷地で十分な空地があり延焼しにくい。このため武家屋敷の前は拡幅の必要がなかったと思われる。
拡幅部の道幅も一定ではない。以前の道幅は、7.1mから8.1mで、東側は蔵が道路に突き出す不自然な凹凸があった。この大火で土蔵も106棟焼失したと記録されており、焼け残った貴重な蔵に配慮しながら両側を拡幅したと考えられる。
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『名古屋城下図』
元禄7年(1694)
平成27年(2015)頃の蔵と道路線形 |