小栗判官が通った?
小栗街道(鎌倉街道)

 鎌倉時代、京と鎌倉を結んだ道は小栗街道とも呼ばれた。歌舞伎などでよく知られていた小栗判官が通ったとの伝承から付けられた名前である。江戸時代には、かつての道筋の多くはすでに畑などに変わり街道ではなくなっていたが、小栗街道の跡と広く伝えられていた。




 小栗街道は鎌倉街道の別称で、小栗判官が通ったとの伝承から付けられた名称である。

 源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、鎌倉と各地を結ぶ道が開かれた。このため、あちこちに鎌倉街道跡と言われるところがある。このうち律令時代の東海道に準じるルートが京都と鎌倉を結ぶ京鎌倉往還として使われた。

 この道は、歌舞伎・浄瑠璃・説経節などで広く知られた小栗判官がここを通ったという伝承から小栗街道とも呼ばれた。


鎌倉街道概念図
◇小栗判官とは?
 小栗判官と照手姫のロマンスを軸にさまざまなストーリーがあるが、その一つは次のような筋である。

 判官と照手姫が恋仲になったが、姫の父親は認めず、判官に毒を盛り殺してしまった。地獄に行った判官に閻魔大王が同情しこの世に送り返したが、その姿は餓鬼になっていた。歩くこともできず「いざり車」を人々の好意で引いてもらいながら、熊野の湯の峰に湯治に行った。その結果元の姿に戻ることができ、姫と一緒になり、復讐を果たした。

◇露橋村を通っていた小栗街道
 ちなみに江戸時代の文献ではこの地域の小栗街道の様子について次のように記載している。

 ○『尾張徇行記』
 古小栗街道ノ跡ハ下米野村ノ南田畝ノ間ニノコレリ、是ハ露橋村界ナリ、夫ヨリ無三戸へ通ス

 ○『尾張名所図会』
 則(すなわち)此所(古渡橋)より西の方、露橋村・上中村などをへて、萱津のかたへ通ふ道を今も小栗街道と呼べり。

 ○『那古野府城志』
 無三戸杁より露橋村、夫より北一宮村(ママ、北一色村)米野村を中村へかゝり、今に於て田間に長き畑地あり、是を今に古の小栗海道と申伝。中村に一里塚抔(など)のこれり。夫より稲葉地村東宿と唱ふる所あり。其先は萱津村古の萱津宿也。




 2024/04/26