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古渡と呼ばれた熱田台地から入り海を大喜村や高田村(現:瑞穂区)へ渡る渡し場について、『新修名古屋市史』は、次のように述べている。
[古渡の中心を往時の「古渡橋」と考えたとき、中世の古渡は、今日の古渡町や古渡橋よりおよそ0.5~1㎞ほど東側やや南寄りの、熱田台地の東の縁から急に低地に降り立った辺り(葉場公園付近)ということになる。]
鎌倉時代にはすでに陸地化が進み、『十六夜日記』の作者は熱田神宮に参拝した後、干潮だったので干潟を歩いて鳴海に向かっている。古渡から大喜へ渡し船で行き来したのは満潮の時だけと考えられるが、それよりずっと昔に海が北の方まで入りこんでいた時代には渡し船が頼りだった。その記憶が「古渡」の呼称となったのであろう。
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5mメッシュデジタル地図で作製
(0~10mで色分け) |