鉄道輸送と舟運の接点
『名古屋今昔写真集』
瀬戸電 堀川駅
 かつて慶雲橋の北東、お城の外堀内に瀬戸電(後に名鉄瀬戸線)の堀川駅があった。全国でも珍しいお堀を走る電車として知られた路線の終着駅だ。
 この駅は堀川での艀輸送と大曽根や瀬戸との鉄道輸送を連結する重要な駅であった。

    お堀の中の駅 堀川駅   瀬戸物の船積みが無かった 堀川駅



お堀の中の駅 堀川駅
◇大曽根駅誘致運動から生まれた 瀬戸電
 瀬戸電が敷かれたのは、中央線の大曽根駅誘致運動がきっかけである。
 中央線の建設が決まったが、設置される駅は名古屋駅と千種駅だけであった。名古屋北東の玄関口として江戸時代から賑わってきた大曽根へ駅を設置するように国へ陳情を繰り返したところ、地元負担で駅用地の提供と土盛工事、瀬戸との交通機関設置がなされれば駅を開設しても良いとの回答があった。
 このため瀬戸自動鉄道㈱(後に瀬戸電気鉄道に改称)が設立され、明治38年(1905)に瀬戸から矢田までの区間が開通し、翌39年(1906)に大曽根まで延伸された。
 
◇大曽根から市内への延伸 お堀電車誕生
 その後、市内への乗入れと水運との接続を図るため、路線の延長を計画した。その一つが外堀線である。

 『瀬戸市史』によると明治41年(1908)2月に陸軍に提出した当初の計画では、大曽根から清水町を経由して東大手門から三の丸に入り、師団司令部前を通って堀川へ到り、併せて巾下門と本町門にも駅を設ける計画であった。しかし、当時は三の丸を陸軍が使っており、第三師団は軍事上支障があるので郭内の敷設は認められないが外堀なら許可するとのことだった。翌42年(1909)8月に改めて外堀線を出願し12月に特許された。

 44年(1911)5月に大曽根から土居下までが開通し、10月に(『名古屋市史』では8月)に堀川(御園御門・惣河戸)まで開通した。

 なお、この工事の中で東大手門・本町門・御園門の枡形が撤去された。また大正4年(1915)に堀川駅が120m位西へ移動している。


当初の敷設計画
「名古屋城郭内道路上ニ軌道敷設
使用願図面」
『新修名古屋市史』


瀬戸電と駅
『大名古屋市街地図』 大正11年

 瀬戸電が堀の中に敷設されたのは、名古屋台地への坂が登れないからと言う説があるが、これは正しいだろうか。
 東大手の標高は15mで土居下が8.5m、標高差は6.5mだ。その間の距離は320mなので、勾配は20‰である。鉄道は一般に25‰が限界と言われており、それに近い勾配だが登れないことはない。瀬戸電が当初は東大手から三の丸に入る計画を建てていたことも考え合わせると、坂が登れないからと言う説は間違いで、軍事施設が集中していた三の丸の中へ線路を敷設できなかったからと言うのが正解であろう。



瀬戸物の船積みが無かった 堀川駅
 『東春日井郡誌』に、大正9年(1920)12月1日から10年(1921)11月30日までの1年間の瀬戸電営業実績が掲載されている。主要3駅の記載しかないが、これを見ると瀬戸電で運ばれた主な貨物が見えてくる。

◇営業実績
・尾張瀬戸駅
尾張瀬戸駅発送 貨物及賃金 尾張瀬戸駅到着 貨物
陶 器 22,897㌧ 25、186.70円
石 粉 15,007㌧ 13、506.30円
陶 土 13,113㌧ 11、801.70円
陶器破片 224㌧ 201.60円
30,081㌧
石 炭 15,787㌧
穀 類
肥 料
その他 1,317㌧ 39,961.74円 17,005㌧

・大曽根駅
大曽根駅発送 貨物及賃金 大曽根駅到着貨物
陶 器 1,107㌧
石 粉 598㌧
陶 土 637㌧
陶器破片
2,158㌧ 1,592.60円
石 炭 768㌧ 691.20円
穀 類
肥 料 120㌧ 108.00円
その他 1,061㌧ 2,466.51円 108㌧

・堀川駅
堀川駅発送 貨物及賃金 堀川駅到着 貨物
陶 器
石 粉 256㌧
陶 土 273㌧
陶器破片
1,398㌧ 1,260.99円
石 炭 8,306㌧ 9,136.60円
穀 類 1,058㌧ 1,163.80円
その他 4,722㌧ 7,065.76円 128㌧

◇堀川駅に到着しなかった 陶器

 これを見ると、瀬戸駅で陶器・石粉(長石の粉末、陶磁器の原料)・陶土などを積み込んでいる。
 大曽根駅でその一部を降ろしているが、駅周辺地域へ配送したり、中央線で他地域へ輸送したりしたのであろう。しかし終点の堀川駅へ到着したのは石粉と陶土だけで、陶器が全くない。
 瀬戸で積み込んだ陶器は、大曽根で2.3%が降ろされているが、残りの陶器が堀川駅に到着していないのはどうしてだろう。

◇輸出の花形 陶器……名古屋で絵付けをして出荷

 陶磁器は名古屋港から海外へ大量に輸出されていた。大正9年(1920)の名古屋港輸出品をみると、1位が陶磁器で1、385万円余、2位が綿織物で515万円余、3位が玩具で216万円弱で、陶磁器は圧倒的に大きな比重を占めていた。

・名古屋で上絵付け
 この輸出用陶磁器は、日本陶器など名古屋で素地から絵付まで一貫して行う会社もあるが、ほとんどは瀬戸や東濃で素地をつくり名古屋で上絵付をして出荷された。東区から北区にかけて輸出業者の下請けをするたくさんの絵付工房があり、そのほとんどが家内工業であった。瀬戸で積み込まれた陶器は、瀬戸電の大曽根から清水までの途中駅で降ろされてこれらの工房へと運ばれていったのである。

上絵付け風景 『名古屋陶業の百年』
・絵付け後、堀川の艀で名古屋港へ
 絵付けが終わり完成品となった輸出用陶磁器は、馬車(後にはトラック)に積まれて堀川岸へ運ばれ、艀に積み込まれて名古屋港へと運ばれた。
 艀業者は「乙仲」(乙種海運仲立業者)と呼ばれ、旧海運組合法で定期船の積荷を集荷して船会社に引き渡す業者で、関連して船腹の予約や艀輸送、船積などの業務を行っていた。
 海運会社毎に艀会社が決まっており、川崎汽船は上組、大阪商船は愛三商船、日本郵船は旭運輸である。上組は船入町一丁目(伝馬橋下流)、愛三商船は船入町二丁目(納屋橋上流)、旭運輸は天王崎橋に荷受所があり、輸出用陶磁器はそこへ運ばれた。

 輸出用陶磁器はこのような流通経路だったので、堀川駅で瀬戸電から艀へ陶磁器が積み込まれることは無かったのである。


輸出関係業者分布図 昭和9年
『名古屋陶業の百年』

上組 『名古屋市西区最新地図』 昭和10年

愛三商船
 『碁盤割住宅地図』
昭和4年

旭運輸 『碁盤割住宅地図』 昭和4年

・瀬戸から名古屋へ……馬・馬車・手車輸送も
 なお、『名古屋陶業の百年』によると瀬戸や東濃から名古屋への輸送は、江戸時代から明治中期までは馬の背に振り分けで積まれて運ばれていた。この場合は1頭で32貫(120㎏)しか運べないため、やがて手車が使われるようになった。瀬戸は近距離(大曽根まで15㎞)なので昭和(1926~)になっても手車が多かった。馬車は早いところでは明治20年(1887)代初め、一般には明治終わり(~1912)頃に普及したとのことである。
 このように、瀬戸電の他に手車や馬車、後にはトラックによる輸送も併用されている。


 瀬戸地域でつくられる陶磁器の内、大正4年の場合は46.7%が輸出向けであった。残りの国内向けの品物の多くは名古屋で上絵付けする必要はなかったが、やはり堀川駅へ運ばれることは無かった。堀川駅には艀業者の荷受所がないからである。
 「瀬戸電で瀬戸物を運んだ」「瀬戸物は堀川の艀で名古屋港へ運ばれ輸出された」『堀川駅は水陸輸送の接点」と言うのはどれも正しいが、「瀬戸物は堀川駅で電車から艀へ積み込まれた」というのは間違いと言えよう。




 2022/11/24