『尾張国絵図』 正保4年(1647) |
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広小路の少し南を西へ延びる裏通り。今は裏通りだが、かつては城下と佐屋街道を結ぶ近道として多くの人が行き交った、柳街道という幹線道路であった。 |
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◇佐屋街道への近道 柳街道は正式の街道では無く、城下から佐屋街道への近道である。納屋橋西南の旧祢宜町から、佐屋街道の烏森を結ぶ4㎞弱の道だ。 名古屋から佐屋街道で伊勢参りや京へ向かうには、三角形の2辺を通る尾頭橋経由より、直線的に結ぶ柳街道が便利であった。 名古屋築城時に造ったと伝えられ、広井村での道幅は2間(3.6m)ほどで街路樹が植えられていた。 ◇なぜ「柳」街道 変わった名前だが、『名古屋府城志』には「昔、役所から三間(5.4m)おきに柳を植えるようにとの御触れが出た。今は柳の木は全くない」と書かれている。 『名古屋市史』は「この説は信じがたく、昔の一楊(いちやなぎ)庄(現:中村区と中川区の一部)へ行く道だから柳街道」としている。 |
明治33年 1/50000 現代 『スーパーマップルデジタル』 |
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◇芭蕉も通った道 西へ向かう城下の人、名古屋へ向かう関西からの人、多くの人が便利なパイパスの柳街道を行き交った。 芭蕉もその一人だ。芭蕉は全国各地の後援者を回り、句会を開き指導をしていた。名古屋は俳句の盛んな土地柄で、何度も訪問している。蕉風を拓いたのも名古屋だ。テレビ塔北に「蕉風発祥の地」の碑が建てられている。言葉の遊びであった俳諧を芸術に高めたのは、名古屋でのことなのだ。 荷兮(かけい)を中心とする名古屋の門人達と厚い交際を重ねた芭蕉であったが、次第に作風をめぐって溝が出来ていった。元禄7年(1694)5月、再び名古屋を訪れた。6回目の名古屋訪問だ。 荷兮達は師の来訪を喜び歓待したが、芭蕉の胸中は理解してもらえなかった。名古屋を発つ芭蕉を、荷兮達は柳街道を共に歩き、佐屋街道と合流する烏森まで見送った。近くの餅屋に入り、茶を飲み餅を食べた。別れの時を迎え荷兮は「麦ぬかに餅屋の店の別れかな」と送別の句を詠んだ。 芭蕉は故郷の伊賀上野に滞在し、大阪に向けて歩を進めたが、同年10月死去。柳街道は名古屋俳壇と芭蕉の別れの道でもあった。 |
2022/01/07 |
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