名古屋の発展とともに
2017年頃の風景
名古屋駅
 文明開化で西洋から多くの技術が入ってきた。そのなかで人々の暮らしや産業に大きな影響を与えたのが、当初は陸蒸気と呼ばれた鉄道だ。
 その輸送力は、短時間・遠距離・大量に人や物を運ぶことが出来る画期的なものであった。その基地となるのが駅で、名古屋の町や時代の変化に応じて、名古屋駅は何度も姿を変えてきた。

    文明開化 鉄道の敷設   初代 名古屋駅   二代目 名古屋駅
    三代目 名古屋駅   四代目 名古屋駅   近鉄・名鉄の名古屋駅



文明開化 鉄道の敷設
 名古屋城下の西外れでのどかな田園地帯であった笹島が、現在のように発展するきっかけとなったのは名古屋駅の開設である。

 文明開化の象徴ともいうべき鉄道は、明治5年(1872)に新橋~横浜が開通したのをかわぎりに、民営も含めて建設が進んでいった。そのようななか、関東と関西を結ぶ大動脈となる鉄道を中山道ルートで建設することになり、17年(1884)に工事が始まった。東海道ルートは海沿いのため、沿線地域の海運が活発で鉄道に依らなくても輸送力があることと、艦砲射撃を受けやすく軍事上不利なことから、中山道ルートが採用されたのである。

 だが、このルートでは幹線鉄道が名古屋を通過しないため、この地方が時代に乗り遅れることが心配された。当時の吉田名古屋区長(現:市長)は国貞県令(現:知事)と相談のうえ県の黒川土木課長(黒川開削の功労者)と共に上京して、東海道が有利なことを説得して再調査の約束を取り付けた。その結果、急峻な山岳地帯を通る中山道ルートは工事費が高額になることもあって、東海道ルートへ変更となった。



初代 名古屋駅

◇明治19年、名古屋駅開業
 この地方でも鉄道の建設が始まった。明治18年(1885)8月に鉄道建設資材運搬のために、天然の良港である武豊港から熱田までの鉄道敷設が始まり、翌19年(1886)3月1日に開通して熱田駅が開業した。引き続いて笹島に設けられた名古屋駅も開業している。時期は『名古屋市史』では4月1日、『名古屋駅80年史』では5月1日としている。
 この時の駅は、今よりも南の笹島交差点北にあった。また開業に合わせて、旧市街地から駅への道が新設されている。


開業当時の名古屋駅
   明治21年(1888)に発行された『尾陽商工便覧』には「名古屋ステーション発車時間」が掲載され、神戸方面(下り)は午前6時・10時、午後2時・6時の4本で、武豊方面(上り)は午前9時5分と午後5時5分の2本となっている。
 その後、着々と整備が進み、22年7月に東海道線が全通している。

   ◇安普請だが、珍しさで見物客群集
 明治23年(1890)に発刊された『尾張名所図絵』には駅舎は安普請だが多くの人で賑わっていると書かれている。
 「名古屋停車場は市の西にありて、笹島村に在り。
 其築造は仮普請にして、敢て視る可きものにあらずといえども、東京新橋より京阪神戸間の鉄道線路の稍中央に当ると、又名古屋は三都に次ぐ一大都会なるとを以て、其発車着車の頻繁にして乗車下車する人々の群集すると、又汽笛を鳴らし烟筒黒煙を吐きつゝ囂々(ごうごう)として車輪線路を輾(きし)り駈るを視んが為に寄集る人とを以て此停車場の内外を充満し、幾(ほと)んど人山頭海を為すと謂ふも亦敢て過言にあらず。其繁昌は亦推して之を知る可き也。」
 また、同書掲載の絵には人力車の姿や出札口らしい窓、右手奥に連結された無蓋貨車が停車し、その手前の屋根の下には莚(むしろ)で梱包された貨物が描かれている。


『尾張名所図絵』  明治23年
 

たんぼの中の名古屋駅(初代名古屋駅)
明治22年測図、25年製版  1/50000

48年後(3代目名古屋駅)はすっかり市街地
昭和12年 『名古屋市街全図』
 



二代目 名古屋駅

  ◇濃尾地震で建替
 名古屋駅は、明治24年(1891)10月28日にこの地方を襲った濃尾地震で大被害を受けた。
 『地震聚報』には「名古屋停車場は全く破壊し」と記録され、翌25年(1892)に駅舎が再建された。

 また、明治28年(1895)に私鉄の関西鉄道(国有化により関西本線)が一部開通して名古屋駅へ乗り入れ、翌29年(1896)には名古屋駅の数100m南に愛知駅を開設している。
 31年(1898)には名古屋駅から当時県庁があった久屋町まで路面電車が開通し、旧市街地との交通も便利になった。
 33年(1900)になると中央線が多治見まで開通し、41年(1908)には東京まで全通して、名古屋駅の持つ機能はより大きくなっていった。
 
◇建築広壮な大駅
 明治36年(1903)刊行の『名古屋案内』には、新橋と梅田に次ぐ大きな駅で、建築も広壮だと書いてある。
「名古屋停車場〈一名之れを笹島停車場と称す〉は市の西端に位し、広小路の終点に在り、
 東海道線中、新橋、梅田に亜(つ)ぐの大駅にして旅客の乗降頗る多く、建築其他の構造また甚た宏壮なり、
 当駅に下車する旅客は同停車場前に電車及ひ腕車(人力車)の車輌を列ねて其需用を待ちつゝあるを以て、随時自由に已か好む所に到るの便あり、また當駅は關西及ひ中央の両鐵道線に接続するを以て、旅客は此所より列車を乗り換へ東濃叉は伊勢地方へ出発するを得るなり。」


『愛知県写真帳』 大正2年

昭和2年の名古屋駅



三代目 名古屋駅

◇発展する名古屋 手狭な駅
 新橋と梅田に次ぐ大きな駅といわれた名古屋駅も、名古屋の発展と共に手狭になり支障を来すようになってきた。
 東海道線が全通した明治22年(1889)の名古屋市人口は15万7000人余だったのが、大正8年(1919)には43万人余に増加している。これに比例して名古屋駅の利用も増え、明治36年(1903)には190万人余の乗降客数が、大正10年(1921)には655万人近くになってきた。

この間、待合室の増設や事務室の改造、跨線橋の新設などが行われてきたが、多くの問題を抱えて限界に達していた。
 ・中央線のホームは一本だけなので、上り下りの行き違いは古渡信号所や千種駅などで行っている
 ・東海道線の上りホームも一本だけなので、普通列車が急行列車の追い越しを待避できない
 ・利用者に比べて手狭なので、通勤ラッシュの時間帯はホーム・車内共に立錐の余地もない
 ・駅前広場が狭く、市電・車両・人が交雑して、乗降客の出入りに困難を感じるほどになってきた

◇駅の移転・高架鉄道・貨物の分離
 この問題を解決し、発展した名古屋の玄関口にふさわしい駅にするため、抜本的な改修が計画され、大正8年(1919)12月の名古屋市区改正委員会(後の都市計画愛知地方委員会)で協議された。

それによると
 ・名古屋駅を移転する
 ・従来平面式であった東海道線・中央線・臨港線を盛土式に変更し、道路交通の円滑化と線路西側地域の発展を図る
 ・貨物駅と貨車の操車場を設ける

◇昭和12年 東洋一の駅舎
 駅の移転事業は大正14年(1925)に用地買収が始まり、昭和9年(1934)に駅舎の建築に着手し、12年(1937)1月末に6階建の新駅舎が竣工し2月1日から開業した。
 当時の絵はがきには「建築の善美は正に東洋一と称せられ、特筆すべきはその材料の一塊のセメント、一本の釘に至るまで全て国産品にて出来上がっている」と誇らしげに書かれている。

 計画のうち、貨車操車場は広大な土地が必要なため、その後計画変更されて稲沢に設けられ、貨物駅は中川運河北端の船溜北に造られて、昭和4年(1929)に開業し笹島貨物駅と呼ばれた。

 東洋一といわれた名古屋駅が完成した6ヶ月後に盧溝橋事件が発生し、日本は一路戦争への道を突き進むようになった。
   

工事中の名古屋駅
鉄骨組上中が新名古屋駅。旧線路は今の駅前通り
 
竣工直前、名古屋駅前を行く蒸気機関車
『名古屋鉄道社史』

新駅開業日の消印がある絵葉書

桜通からの新名古屋駅



四代目 名古屋駅

 長年親しまれた名古屋駅だが、老朽化により駅舎は平成5年(1993)に取り壊され、11年(1999)に高さ245mの複合ビル「セントラルタワー」が建てられた。
 現在、リニア中央新幹線の品川~名古屋の整備が進められており、名古屋駅はさらに名古屋の中核となり発展してゆくことであろう。




近鉄・名鉄の 名古屋駅

 昭和13年(1938)に近畿日本鉄道が名古屋駅に乗り入れるようになり、名古屋鉄道も16年(1941)からそれまで柳橋始発(押切までは市電の線路に乗り入れ)だったのが、新名古屋駅に変わった。名鉄の名古屋駅乗り入れは太平洋戦争が始まるわずか4月前である。『新愛知』には「名鉄電車・晴れの偉業 名古屋駅地下乗入れ」と3段抜きの見出しが躍り「交通は一国国力の原動力と言って過言ではない。直接高度国防体制に大きく寄与する部分であって‥‥」と、その意義を説明している。
 リニア開通に合わせて駅周辺の再整備が課題となり、これらの駅も再整備が始まろうとしている。




 2022/01/16