善光寺の門前に、道標が建っている。 元はここより北の新東海道(前ヶ須街道)と築地への道の分岐点に建っていたものである。名古屋港が開港場になり、築地への交通が増えるなか、その案内として作られたものであろう。 |
|
|||
善光寺の門前に、読みづらい石柱が立っている。 目をこらしてみると、 正面に「熱田前新田 施主地主中」 左面に「右 前ヶ須桑名 左 名古屋市築地 道」 裏面に「明治四十年十一月‥‥」 と刻まれている。 これは東海道(前ヶ須街道)と名古屋港への道が分岐していた辻に建っていたものだ。 東海道は熱田から七里の渡し、その脇街道が佐屋街道というイメージが強いが、明治になると陸路の東海道が定められた。明治5年(1872)に「東海道佐屋路道換 更に尾州海西郡福田・前ケ須両駅ヲ被置候条 此段相達候事」という太政官布告が出された。 宿駅制度が定められた江戸時代初期には海だったところが、干拓新田ができて陸地になっている。そこを歩けば直線的に桑名へ行けて佐屋街道より便利が良い。このため道換えが行われ、新しい東海道が制定された。熱田宿から大瀬子渡しで堀川を渡り一路西へと向かう。途中に福田(現:港区西福田)と前ヶ須(現:弥富市前ヶ須町)に駅が置かれた。 明治22年(1889)には東海道線が全通、28年(1895)に私鉄の関西鉄道(後の関西本線)が草津(滋賀県)から桑名を経て名古屋まで全通したが、その後も地域の幹線道路としての利用が多く、40年(1907)にこの道標がたてられた。 ちなみに、明治40年(1907)は名古屋港がほぼ完成して開港場に指定され、築地が名古屋市に編入された年である。今後大きく発展する事が期待されるが、まだよく知られていない新開地への案内標識として建てられたと考えられる。 |
|||
正面 |
左側面 |
裏面 |
2023/04/12 |
|