遊覧・仕事・戦い
下街道を巡る人々

 便が良い下街道は、商人・荷物の輸送・御嶽山登拝・善光寺参り・伊勢参りなど様々な人が行き来した。そのなかに、江戸時代のベストセラー作家である鈴木牧之や、日本地図を作成した伊能忠敬もおり、幕末には水戸天狗党が下街道から名古屋へ来るのではと厳戒態勢が取られたこともある。

    鈴木牧之の西遊紀行   伊能忠敬の測量   天狗党が下街道を名古屋へ? 大曽根に守備隊



鈴木牧之の西遊紀行
 江戸時代、十返舎一九と並ぶベストセラー作家に鈴木牧之がいる。越後塩沢の商人であり文人でもあり、『北越雪譜』『秋山紀行』などで知られた人だ。
 寛政8年(1796)1月、27才の牧之は友人と連れ立ち伊勢詣と西国三十三か所巡礼の旅に出た。中山道を西へと向かい、木曽谷に入り下街道を通って名古屋に来ている。

 道中では俳句を詠み未知既知の友人を訪ね、旅の様子を『西遊紀行』として纏めている。牧之が見た下街道は次のような風景であった。

 池田内津の間に蕉翁の碑あり。其銘「山路来て何やら床し菫草」。又也有老人の句あり「鹿啼や山にうつむく人心」。其外桂坊明之坊なとの句あり
   塚に咲 菫に慕ふ 故人かな
 此処美濃と尾張の境なるよし峰に相生の松あり
   相生に 松むつましや 国境


 名古屋では雨に降り込められ、佐屋街道を通り津島神社を参拝して、佐屋から三里の渡しで桑名に向かった。その時の風景を次のように詠んでいる。

 名古屋の増田屋に舎るに折から春雨頻なれは
   旅籠屋に 重なる笠や 春の雨
 津嶋午頭天王の境内にて
   永き日に 拝み残すや 宮居立
 桑名の渡しにて
   舟長の するとき声や 春の風



伊能忠敬の測量
 文化8年(1811)3月22日、伊能忠敬の一行が、下街道や稲置街道(木曽街道)などの測量をした。

 『尾三測量日記』に次のように書かれている。
「三月廿二日朝曇天。我等・下河辺・青木・上田平助六ッ後小牧駅出立。同所より初。北外山・南外山・春日井原新田・味鋺原新田(又味鏡原新田とも云)・勝川村又駅ニ而別手と合測(一里三十四丁五十四間)、坂部・永井・梁田・箱田・長蔵、春日井郡大曽根村地内大印より初逆測。山田村(山田川土橋二十四間)・瀬古村(勝川川巾三十〇間四尺五寸)勝川(村駅)迄測、別手と合測(一里〇三丁二十一間四尺五寸)。夫より両手一同ニ大印より初、愛知郡・名古屋城下、上坂町・赤塚町・同二丁目・鉄砲塚町(休、中食永楽屋伝左衛門)九十軒町・新町・鍋屋町・小牧町・石町・中市場町・諸町・京町・両替町・福井町・富田町制札前、即(清洲・熱田・小牧・平針)四ッ辻迄測(一二里〇一丁十四間三尺)九ッ半頃玉屋町着、止宿。同前。町方検使役野田小平治(次上下ニ而出ル)町奉行手付真野鉄蔵(付添)鍋屋町水野太郎左衛門と云用達町人暦術を聞ニ出ル。熱田大宮司千秋加賀守と云、高千石ニ而愛知郡小鳴海村・野波村を給地スト云」

 概略次の内容である。
 午前6時(夜明け)頃に忠敬の一行4人の班は小牧を出発し、測量をしながら稲置街道(木曽街道)を南へ進み勝川に到着。別の班の5人は大曽根の大印(基準点?)から測量しつつ下街道を北へ進み勝川に来て合流した。
 その後は一緒に大曾根の大印から城下町内の下街道を測量しつつ都心へ向かい、鉄砲塚町(現:平田町交差点北西)で昼食をとった。その後も測量しつつ本町筋を南下して札の辻(本町筋と伝馬橋筋の交差点)で測量を終えた。午後1時頃に玉屋町(札の辻の南)の宿に着き泊まった。
 宿には尾張藩の検使役である野田小平治が裃姿で来訪した。また町奉行所の職員に付き添われ、水野太郎左衛門(藩の鋳物師頭)が暦の作り方を聞きに来た。


水戸天狗党が下街道を名古屋へ? 大曽根に守備隊
 元治元年(1864)11月、尊王攘夷の旗の下に決起した水戸天狗党の志士たちが、大砲をたずさえ大挙して中山道を京都にむかっているとの報が名古屋に届いた。下街道の入り口、大曽根は戦争の準備でたいへんな騒ぎになった。

◇水戸天狗党とは?
 幕末の動乱期、水戸藩も尊皇派と左幕派に藩論が二分していた。
 尊皇攘夷をとなえる天狗党は、藩内での抗争に破れ、ついに元治元年3月筑波山(現:茨城県)で挙兵し、京都にいた水戸藩主 一橋慶喜(よしのぶ、後の15代将軍)に会い、直接自分たちの考えを訴えようとした。
 元家老の武田耕雲斎を総大将にして1,000名もの志士達が200頭の騎馬と15門の大砲を携え、11月1日に常陸大子〔現:茨城県大子(だいご)町〕をたち、「奉勅」「大和魂」「報国」などと書かれた幟をなびかせつつ中山道を京都にむかった。

◇幕府から追討令
 沿道の各藩は幕府から追討の命令を受けており、天狗党の上京を阻止するべく戦闘が始まった。

 11月16日には追撃してきた高崎藩兵と下仁田(現:群馬県下仁田町)で激しい戦いになり、天狗党は4名の戦死者を出したものの、高崎藩兵36名を討ち取った。さらに西に進み、20日には和田峠(現:長野県長和町)で待ち受ける松本藩・高島藩と交戦し敗走させた。

 その後、天狗党は伊那街道(伊那谷)を飯田にむかい、清内路峠(現:長野県阿智村)を越えて26日には木曽の馬籠(現:中津川市)まで進んできた。沿道の藩は、高崎藩や松本藩などの敗北を知っていたので、抵抗することなく一行を通過させた。

◇尾張藩 大曽根などに守備隊を配置
 こうした情勢に、名古屋城下でも天狗党が伊那街道を南下している20日過ぎからうわさが広がりはじめた。
 尾張藩は、御三家筆頭で全国でも有数の大藩である。天狗党が城下を通行するのを黙認したり、戦って敗れることがあっては、面目は丸つぶれとなる。27日から城下の出入口である、大曽根・出来町・清水・末森など9か所に守備隊を配置し警備を固めた。

 下街道が通る大曽根口では、善行寺(現:東区徳川二丁目)に本陣(戦争の指揮をとる所)をおき、野呂瀬半兵衛が隊長で防備を固めた。付近の寺はもちろん、広い民家も宿舎にあてられた。しかし、集まった藩士は、鎧・兜に身を固めた者、籠手(こて)や脛当(すねあて)など小具足姿の者、陣羽織や火事羽織の者など、太平の世に慣れた武士があわただしく参集したことが感じられる光景であった。
 『感興漫筆』などの著者として知られる細野要斎家にも、27日の朝に即刻出来町へ来るよう命令が伝えられた。息子の得一が午後1時頃に出立したが、具足は持っておらず、12月2日に藩から貸具足を受け取っている。
 大曽根周辺の住民たちは、女性や子どもを避難させたり貴重な家財を運び出したり、たいへんな騒ぎになった。
 
 この間、天狗党は中山道を南下し、28日には大井宿(現:恵那市)で宿泊。翌29日はとうとう槙ケ根の追分にきた。
 右に進めば中山道、左に進めば大曽根に続く下街道である。藩が派遣した遠見の者(偵察)も、息をのんで見つめている。天狗党はそのまま中山道を進み、この日は御嵩(みたけ)宿(現:御嵩町)で宿泊した。翌30日は名古屋に続く稲置街道(木曽街道)が分岐している伏見宿(現:御嵩町)に達したが、ここも中山道を西にむかい、名古屋を迂回して進んでいった。
 尾張藩の厳戒態勢は12月11日に解除されている。

◇その後の天狗党
 12月1日には揖斐(現:岐阜県揖斐郡)に到着した。その後、根尾村(現:本巣市)から蝿帽子峠(現:廃道)を越え12月4日には越前の大野(現:福井県大野市)へ入った。
 その後、木の芽峠(現:福井県南越前町)を越え新保(現:敦賀市)に到着したが、そこには1万を超える大軍が布陣し、指揮していたのは天狗党が希望のともしびとしてきた慶喜であった。

 ついに万策尽きた天狗党は、12月17日、近くで対峙していた加賀藩に降伏を申し出た。翌元治2年(1865)2月には、投降した800余名のうち353名が斬首刑となった。




 2025/06/22