都心と直結の夢
名鉄小牧線 上飯田駅

 昭和6年(1931)に尾北地方と名古屋を結ぶ小牧線が開通した。しかし終点は上飯田駅で、ほかの鉄道とは連絡していない駅であった。
 昭和19年(1944)に戦時下の工員輸送を目的に上飯田駅と大曽根を結ぶ市電が整備されて解決したが、昭和46年(1971)の地下鉄開通により廃線となった。上飯田駅は再び孤立した駅になり、人々は1㎞離れた地下鉄駅まで歩いていた。
 平成15年(2003)になって上飯田連絡線ができて地下鉄と結ばれ直通運転も行われ長年の課題が解決した。

    小牧線の開通   市電と接続   地下鉄開通……市電は廃線
    上飯田連絡線 開通    



小牧線の開通
   平成15年3月27日、上飯田連絡線が開通した。犬山から小牧、春日井などを経て南下する小牧線は、それ以前は上飯田駅が終点であり、ほかの鉄道につながらない不便な路線であった。小牧線の北部に住む人は、大回りして犬山経由で名古屋に出るほうが便利だったというほどである。小牧線はどうしてこのように造られたのであろうか。

◇鉄道建設の機運
 小牧は戦国時代には小牧城があり、江戸時代になると小牧代官がおかれ、稲置街道(木曽街道、上街道)の小牧宿もあった、名古屋北部の中心地である。明治から大正にかけて名古屋周辺地域では産業振興のため、鉄道の誘致や建設が各地で行われていた。明治25(1892)年に中央線の建設計画が起きると、名古屋北部の町村は名古屋・枇杷島・小牧・内津・多治見の北回りルートを採択するように運動したが現在の東回りルートに決まり、これをきっかけに私鉄を敷設する機運が盛りあがってきた。

◇壮大な構想……小牧線・坂下線・押切線
 名古屋周辺の各地で私鉄の建設が進むなか、この地域でも大量輸送に適した鉄道を期待する声が高まり、昭和2年(1927)に城北鉄道㈱が設立された。
 計画は、小牧から中央線の大曽根駅まで延びる本線とともに、途中の味鋺駅から郡役所があった勝川をとおり養蚕や製糸工場地帯として栄えていた坂下(春日井市)までつなぐ坂下線、上飯田駅から現在の名鉄本線(当時は一宮まで)に当時あった押切駅(西区押切一丁目)までつなぐ押切線をつくるという大規模なものである。また、小牧から犬山のあいだは、別に設立された尾北鉄道㈱が整備する計画であった。

◇計画縮小……上飯田始発で、小牧線と坂下線
 工事が進むにつれ、当初の計画に大きな障害が発生した。上飯田より先の敷設ができなくなったのである。
 『楠町誌』には「大曽根乗り入れは名古屋市の反対にあい中止して、上飯田を名古屋起点とし、また押切方面も上飯田以西は中止し」と記載されている。
 理由は書かれていないので推測するしかないが、昭和15年(1940)に発表された名古屋市の高速度鉄道(地下鉄)計画が参考になる。この計画図には、上飯田駅~市役所と上飯田~押切の民間鉄道の線が描かれており、これに接続する形で、市役所~栄~熱田、押切~名古屋~鶴舞~高辻など4路線29㎞の地下鉄計画が書かれている。たんに上飯田から先の敷設を禁止したのではなく、地下鉄計画と整合性を持った地域交通網の検討が進められているため一時停止したのが実態であろう。なお、押切駅は昭和16年に名鉄本線が現在のように名古屋駅乗入れしたことで廃止となり、上飯田~押切の路線建設の価値はなくなっている。

◇昭和6年……小牧線・坂下線 開通
 昭和4年(1929)に名岐鉄道㈱(現:名古屋鉄道㈱)により城北鉄道と尾北鉄道が買収された。その後も工事は進められ、6年(1931)2月11日に小牧~上飯田と味鋺~勝川が、4月29日に小牧~犬山が開通した。

 沿線の人々の夢と期待をになって登場したが、利用客は少なかった。上飯田から先の交通の便が悪かったからである。30分毎の運行が40分、50分と本数が減ってゆき、対照的に大曽根に乗り入れているバスの利用は増えてゆくありさまであった。
 車両にも問題があった。ガソリンカーと呼ばれる運転席の下にあるガソリンエンジンから、動力をチェーンで車輪に伝える簡単な構造のものを採用したが、力がなかった。満員の時には三階橋の坂をあがれず、一度うしろにさがって勢いをつけてあがるという状態であった。

◇昭和12年……坂下線 廃線
 乗客の激減とガソリン価格の高騰により採算は悪化し、路線の廃止が話題になってきた。
 昭和12年(1937)に勝川への支線が開通後わずか6年で廃止された。上飯田~犬山の本線は沿線市町村による反対の陳情でなんとか存続しているというありさまである。
 この年の7月には盧溝橋事件が発生し日本は戦争への道を進み始めた。ガソリンの統制が厳しくなり、運行は2時間毎で、1日わずか6往復というさみしい状態になった。



昭和7年 1/25,000
坂下線は新勝川駅までしか完成しなかった


上飯田駅 北から南方 『名古屋鉄道社史』



市電と接続
 戦争の激化は市内交通にも大きな影響を与えた。ガソリンが不足しているので市バスの電気自動車化が進められ、昭和13年(1938)には木炭バスも登場している。

◇昭和19年(1944)……上飯田~大曽根の市電 敷設
 一方、兵器増産のため軍需工場などへ通う人々が増え、交通難が発生した。昭和19年(1944)になると、異常な交通難に対処するため、南部工業地帯を中心に軍需工場へ労働者を輸送するための新路線の建設が急ピッチで進められた。輸送力強化の一環として7月に御成通線として上飯田から平安通を経て三菱発動機のある大曽根までの市電が開通した。小牧線の懸案であった上飯田駅からの公共交通機関が整備されたのである。

 この年には学童疎開が始まり、12月13日には三菱発動機にB29 7~80機による本格的な名古屋初空襲が行われ、330名が犠牲となった。以後繰り返し行われた爆撃により市内で8,000人近い非戦闘員が殺され市域の多くが焦土と化していった。


市電 敷設前 
『名古屋市街全図』 昭和14年


市電 敷設後
『最新名古屋市全図』 昭和26年


地下鉄開通……市電は廃線
 悲惨な戦争が終わり、その後も小牧線の利用客は上飯田駅で市電に乗り継いで都心にむかっていた。
 しかし、昭和46年(1971)に地下鉄名城線が開通するとともに廃止され、小牧線上飯田駅と地下鉄平安通駅間の約1㎞はバスか徒歩で移動して乗り継がなければならなくなった。朝夕のラッシュ時には狭い歩道を多くの人が黙々と駅のあいだを歩くという不便な事態になったのである。



上飯田連絡線 開通
 上飯田駅で連絡する鉄道がない状況を改善するため、平成6年(1994)に愛知県・名古屋市・沿線自治体・名古屋鉄道㈱をはじめとする民間企業15社が出資して上飯田連絡線㈱が設立され、8年(1996)から味鋺~平安通の地下に鉄道を敷設する工事が始まった。
 工事による沿線商店街への影響などの問題もあったが、その一方、工事により湧き出した地下水が近くの黒川(堀川上流部)へ放流され、一時期とはいえ市街地の川が山奥の清流のような流れに変わった。底まで透きとおるきれいなせせらぎに川藻がゆれ、オイカワは川面が黒く見えるほど群れをなし、蜆がとれるという光景が出現したのである。

 平成15年(2003)3月27日から連絡線の運用が始まった。味鋺から上飯田までは名鉄小牧線、上飯田から平安通は地下鉄上飯田線として運行され、1時間に4本の直通電車も走るようになった。名古屋都心と鉄道で連絡するという小牧線沿線の人々の夢は、時代の波にほんろうされながら72年ぶりに実現したのである。




 2025/12/01