黒川開削と犬山街道
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○江戸時代の幹線は稲置街道
江戸時代、名古屋から犬山方面へ行くには、清水口から安井・味鋺をとおる稲置街道(木曽街道)が利用されていた。途中の矢田川や庄内川を越えるところは低湿地帯になっており、不便な道であった。明治元年(1868)頃より庄内川には車(大八車)の通路幅だけ板を敷いた「車橋」がかけられるようになっていたが、成願寺と瀬古の間は依然として低湿地帯を通らなければならなかった。
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明治24年 地形図 |
○黒川開削の土で、犬山街道
明治10年(1877)の黒川開削の時に、掘削で出た土を沿岸に盛土して道路として整備した。翌11年(1878)には水分橋もかけられて、この新しい道が犬山街道と名づけられ、県道に指定された。
清水口から稲置街道を北へ進み、黒川橋を渡ったところが稲置街道と新しい犬山街道の分岐点である。犬山街道は、ここから黒川の岸を北東へと伸びている。この頃の沿線はまだ田園地帯で、東志賀の集落を過ぎると一面の田になり、せせらぎの音を聞きながら進んでゆくと、途中で下飯田や辻村への道が分岐していた。矢田川を三階橋で渡って瀬古に入り、庄内川の水分橋を越えて味鋺神社の北東で新しい犬山街道は稲置街道に合流した。
黒川橋から味鋺神社までのバイパスができたわけである。
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○黒川岸を馬車が行く
人々は通行しやすい犬山街道を利用するようになり、黒川岸を通る人や馬車、車が増えていった。
明治35年(1902)になると、上竪杉町(現:明和高校の東)から犬山までの定時乗合馬車の運行が行われた。1日4往復で、その他に小牧止まりの便もあった。黒川の岸を当時の大量輸送手段である馬車がトコトコと走っていたのである。
大正7年(1918)には乗合自動車が小牧~大曽根を、昭和6年(1931)には今の名鉄小牧線が開通してガソリンカーが犬山~上飯田を結ぶようになった。19年(1944)には市電が上飯田まで延長され、上飯田周辺と犬山街道は名古屋北東部の交通の中心として非常な賑わいをみせていた。
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