江戸時代の稲置街道
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◇江戸時代初期に整備
元和元年(1615)木曽山が尾張藩領となった。また、尾北の要衝である犬山には、藩の家老である成瀬氏の知行地と居城があった。
このため木曽や犬山へ行くのに便利なように街道が整備された。名古屋城の東大手から清水口を経て東志賀村・安井村を通り、庄内川を渡って味鋺村へ、更に春日井原を北上して楽田(現:犬山市)の追分で中山道の伏見宿へ向かう道と犬山への道が分岐していた。
道の整備は、名古屋開府以前に尾張の中心地であった清洲と犬山を結ぶ旧来の道を改修し、名古屋まで延長したといわれている。元和9年(1623)に清洲への馬次(うまつぎ)であった小牧宿を小牧山の西南から東南に移転させて稲置街道の宿場にしており、この年に整備された。
道幅は3間2尺(6.06m)で両側に高さ3尺(0.9m)の土手を設けて松や柳を植え、一里塚を設置している。宿場は小牧・善師野(ぜんじの、現:犬山市)・土田(どた、現:岐阜県可児市)の3か所に置かれ、25人の人夫と25匹の馬が備え付けられ、大規模な通行があるときに助郷に出る村も決められていた。
◇お殿様も利用したが衰退
尾張藩主が参勤交代で江戸と行き来するときにも、全行程のうち3分の1は自領を通り領内の検分などもできるので、200回の参勤交代のうち33回この道を利用した。
しかし、江戸方面へゆくには、非公式の下街道を利用するのにくらべ6里(24㎞)ほど距離が長く、中山道での登り下りも多かった。このため、下街道を利用する庶民が増えて稲置街道の宿場経営は苦しく、善師野宿は「これはという宿もない」と記録されているような状態であった。
◇街道の名前はさまざま
今では道路は管理の必要から道路台帳がつくられ、それに記載されている名称が正式名称である。しかし昔はそのような管理は行われておらず、人々が呼ぶ名が道の名であった。このため、この街道もさまざまな呼び名があった。
犬山や善師野がかつては稲置(いなぎ)庄だったので「稲置街道」、木曽へ行くのに利用されたので「木曽街道」、通る宿場や終点から「小牧街道」「善師野街道」「土田街道」「犬山街道」、藩の定めた公式の街道なので「本街道」、下街道(大曽根を通る善光寺街道)との対比から「上街道」とも呼ばれた。
いずれも通称なので、あだ名と同様にどれが正しい名前ということはない。
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『福徳村絵図』 |
『味鋺村絵図』
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◇安井の渡し
稲置街道は清水口から城下を出て北へとむかう。杉村・東志賀村を通り、安井村の一里塚を過ぎると矢田川である。ここは増水期には渡し舟(「安井の渡し」)で、渇水期になると昔は土臼の空き篭に土を詰めて作った飛び石を伝って渡ったが、後には土橋が架けられるようになった。
◇味鋺の渡し
成願寺と瀬古の堤防にはさまれた低地を通って庄内川の川岸に出ると「味鋺の渡し」がある。9月から3月までの水量が少ない時期には、少し下流の西八龍社近くに仮橋がかけられた。
舟は藩の御船手役所で造ったものが支給され、水主は味鋺村から8人出ていた。渡し賃は馬が8文、商人5文、一般の人は4文で、水量が多いときには増額された。藩主の参勤交代など大規模な通行の際には、舟をつないだ船橋がかけられたという。
渡し舟に揺られて川を渡り北岸に着くと、近くの堤防上に石に彫られた小さな観音像が建っていた。旅人の安全を見守るとともに道標にもなっている。この観音像は河川改修により今は護国院の無縁仏の前に移されている。
さらに進むと小さな川を越える石橋がかかっている。加藤清正が名古屋築城の時にかけたものと伝えられ「清正橋」と呼ばれていたが、今は味鋺神社の境内に移築されている。街道は、護国院の西から北をまわり、味鋺の集落へと入ってゆく。道沿いには旅人を相手に小商いをする家もあり、街道らしい雰囲気をかもしつつ小牧方面へと続いていた。
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矢田川と庄内川の渡船
『成願寺村絵図』
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味鋺の渡し 仮橋(中央に広いか所があり、すれ違えた)
『尾張名所図会』
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