裁断橋の東にはかつて海が広がり、鳥居が建っていた。ここから満潮の時は舟で、干潮の時は干潟を歩いて現在の南区戸部町へ行った。戦国時代に信長が土盛りをさせて築出町ができ、さらに山崎橋の方へ直線的な道を築き八丁畷と呼ばれた。これが江戸時代の東海道である。少し東には一里塚があり周辺は旅人が休憩する立場になっていた。ここは熱田の東玄関であった。 |
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◇築出鳥居 裁断橋の東南に鳥居があった。江戸時代の干拓により陸に変わったが、それ以前は鳥居の東は海であった。鳥居のところから、満潮時は舟で戸部村(現:南区戸部町)まで渡り、干潮時は歩いて行った。このあたりが呼続浜であった。 ◇築出町 橋から東の東海道筋は築出町である。「築出」とは土盛りをして土地を広げることで、築出を築いたのは織田信長である。加藤圖書之助順盛(東加藤)に命じて土盛りをさせたと伝えられている。 |
安政以前新訂 『熱田図』 |
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◇一里塚 現在、旧東海道と名鉄常滑線が交差する北西の街園に宮地区の案内看板が建てられ、その場所が旧一里塚跡と思われているが、本来の場所は少し東の新堀川付近(神明社南付近)である。 植えられていた樹は両側とも榎で、明治になり取り壊されたという。このあたりは立場(旅人の休憩場所)になっていた。 |
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「東海道分間延絵図」 |
2022/07/08 |
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