大瀬子渡しの安全祈願
千年渡場中安全 水鉢

 地蔵堂の前にさりげなく置かれている石の水鉢。よく見ると「千年渡場中安全」の文字が彫られている。これはかつて近くを通る東海道が堀川を超えるところにあった大瀬子渡しが多くの人に利用され、渡船業務が安全に行われるようにとの願いを込めて奉納されたものである。




 祐誓寺北西の地蔵堂前に、明治34年(1901)正月に寄進された「千年渡場中安全」を祈願する水鉢(?)がある。

 江戸時代、堀川に架かっていたのは七つの橋だけで、尾頭橋より下流は渡し舟で行き来し、白鳥と大瀬子に渡船場があった。白鳥橋は明治40年(1907)、大瀬子橋は42年(1909)に初めて架けられている。


◇佐屋街道は廃止、新東海道を開設
 東海道の熱田宿から桑名宿は海路を行く七里の渡しが正式のルートだが、海が荒れたときや船を嫌う人々のために尾頭橋から佐屋を経て三里の渡しで桑名宿に出る佐屋街道が脇往還として設けられていた。

 しかし明治5年(1872)に「東海道佐屋路道換、更に尾州海西郡福田・前ケ須両駅ヲ被置候条、此段相達候事」という太政官布告が出された。これにより佐屋街道は廃止され、新田地帯をまっすぐ西に向かい前ヶ須から船で桑名に出る道が新しい東海道(前ヶ須街道)になったのである。

下図『尾張国全図』 明治12年

◇大瀬子渡しは東海道の一部
 堀川を渡るのは大瀬古と千年村を結ぶ大瀬子渡しであった。明治24年(1891)の5万分の1地形図には千歳村の所に「東海道」と記入されている。なお、26年(1893)の『名古屋明細地図』には白鳥渡しの所に東海道と書かれている。白鳥からでも大瀬子からでも新東海道に出ることができたが、名古屋方面からの便を考えて白鳥渡しを案内したのであろう。

 新東海道ができるとたくさんの旅人が大瀬子渡しで堀川を渡り、桑名へと行き来するようになった。日本一旅人の多い幹線道路の、賑わう渡し場になったのである。

 明治22年(1889)になると東海道線が全通し新東海道(前ヶ須街道)を歩く旅人は減ったが、東海道線は名古屋から関ケ原を通り京都へと向かっている。愛知県西部や三重県方面へは引き続き街道を歩くしかなかった。
 しかし28年(1895)に私鉄の関西鉄道(後の関西本線)が草津(滋賀県)から桑名を経て名古屋まで全通し、新東海道(前ヶ須街道)の広域幹線としての役割は終わり、地域の幹線道路として使われるようになった。

 このような時代背景のなか、大瀬子渡しの安全を祈願して明治34年(1901)に「千年渡場中安全」の水鉢が奉納されたのである。その8年後に大瀬子橋が架けられ渡船は姿を消している。


1/50000 明治24年


『名古屋明細地図』 明治26年




 2023/04/04