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◇古代から交通の要衝
熱田は日本武尊が東征するにあたり出撃拠点になったように、古代から交通の要所であった。
鎌倉時代から旅行者が増え源大夫社(上知我麻神社)の東付近は宿町と呼ばれるようになった。しかし裁断橋に近い地域は葦野で人家が少しあるような状態である。
だが永禄年間(1558~70)に人家が多く建って町並ができ、今道と呼ばれた。さらに裁断橋の東地域も土盛りをして築出町が生まれている。
◇慶長6年 宿場に指定
徳川氏が江戸幕府を開く以前の慶長6年(1601)、東海道などに宿駅の設置を命じたときに熱田は宿場に指定された。江戸から41番目の宿である。宿町も今道も共に伝馬役を務めるようになったので合わせて伝馬町と呼ばれるようになった。
◇宿場の規模
『東海道 宿村大概帳』によると
・江戸からの距離……88里35丁7間(355.8㎞)
・宿 の 町 並……東の築出町から七里の渡し船着場まで11丁15間5尺(1.2㎞)ある。
・宿内の人口……10,342人(男:5,133人 女:5,209人)
・宿内の戸数……2,924軒
◇御朱印番所(御朱印改め)
伝馬などを無料で使用できる朱印状が真正かどうかを調べる御朱印改め所があった。これは他の宿場にはなく熱田宿だけにあった役所である。
元和8年(1622)に江崎清左衛門がこの職に任ぜられ、自宅を役所にして業務を行っていた。
張られている幕は紺色で、○の中に「眞」字をデザインした紋が白抜きで染められていた。これは初代藩主義直が朱印状の真偽を糾すところなのでこの紋にしたとも、船番所の幕が新しい紋(○に八)に変わったので、古いのを転用したとも言われている。
下役が5人いて、年俸は20石であった。
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