納屋橋バルコニー部の欄干には「中抜き十文字」と呼ばれる福島正則の紋が付けられ、南東の堀川岸には正則の像が建っている。むろん、御普請総奉行として堀川を造った功績をたたえたものだ。福島正則とは、どんな人だったのだろうか。

    中抜き十文字紋   出世の階段と奈落   名古屋城門番所の幕は中抜き十文字紋



「中抜き十文字紋」とは
 
馬のくつわ
伊賀上野城展示品

くつわ紋
 福島正則の紋は別名を「釘抜紋」(釘貫紋)ともいう。

 紋に十字があるので、正則はキリシタン大名だったのかと思う人もいるが、キリスト教とは関係が無い。
 丸に十文字は薩摩の島津氏も使った紋で馬のくつわ(馬の口に噛ませて、手綱を付ける器具)をデザインしたものである。馬は今のジープにあたる戦場の必需品なので、武士に好まれた紋である。

 福島氏の紋は、十字の中央に四角の穴が開いている。この穴があるので釘抜き紋ともよばれる。
 ふつうの釘抜き紋は四角の中央を白く抜いた模様だが、これは和釘を抜くときに使う座金がデザインされたものといわれる。
 なぜ「釘抜き」紋が尊ばれたのだろうか。「釘抜き」は「九城(くき)ぬき」、九の城を落城させるに通じるので侍が好んだという。
 福島氏の紋は、尚武紋と呼ばれる武士好みの紋を二つ組み合わせたものである。

 
釘抜き
『和漢三才図会』
 四角の座金穴に釘と梃にする細長い板をはめて、梃の原理で釘を引き抜いた。


釘抜紋



駆け上がる出世の階段 その先に待つ奈落
   
  ◇郷土出身の英傑の一人
 福島正則は堀川を開削した事以外、名古屋ではあまり知られていない。
 この時代、名古屋や近郊から日本の歴史を動かした英傑と呼んでもよい人物を多数輩出している。これらの人々は、三英傑があまりに偉大なため、その影に隠れてしまっているのだ。

加藤清正 …… 中村区出身で、朝鮮出兵での虎退治の逸話を残し、肥後54万石の領主になる。
前田利家 …… 中川区出身で、秀吉の五大老のナンバー2となり、加賀百万石の領主への礎をつくった。
佐々成政 …… 西区出身で富山城主となった。秀吉を滅ぼす同盟を家康と結ぶため、厳冬期に北アルプスを横断した「さらさら越え」の逸話や埋蔵金の伝説を残す。
柴田勝家 …… 名東区出身で、越前49万石を領有。賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れる。
 超有名人だけでもこれだけある。福島正則もその一人だ。

  ◇あま市で誕生
 出身は名古屋の西、今のあま市。永禄4年(1561)に大工(あるいは桶屋)の息子として生まれ、幼名は市松であった。
 福島正則・豊臣秀吉・加藤清正は従兄弟同士(正則の母が秀吉の叔母)とも伝えられ、正則は秀吉より24歳年下、清正より1歳年上だ。

 数え年で12才のとき大工をけんかで殺してしまい、村に居れなくなり出奔したという。

 
 

福島正則生誕地の碑
   ◇出世街道をひた走る
 その後、秀吉に仕え、天正11年(1583)の賤ヶ岳の戦いで加藤清正などとともに戦功をあげ、「七本槍」の筆頭として5千石を拝領し出世の糸口をつかんだ。

 
「賎ヶ嶽大合戦図」 歌川豊宣画
ホラ貝を吹くのが秀吉。手前右端が正則で、清正など「賎ヶ嶽の七本槍」の面々が描かれている。

   天正15年(1587)の九州討伐後に伊予の国11万石の領主、文禄の役では朝鮮で軍需品の輸送を担当し、文禄4年(1595)には故郷 尾張の清洲城主24万石に出世した。故郷に居られなくなって飛び出した少年が、23年後に殿様となって帰り故郷へ錦を飾ったのである。この時、正則は34歳であった。

 秀吉の子飼いの大名であったが、武断派の正則は文治派の石田三成と仲が悪く、関が原の戦いでは率先して家康方の東軍に参戦。苦戦のなか大きな犠牲を出しながらも宇喜多秀家の部隊を破り、東軍の中でも第一の働きとたたえられた。
 この功績で、広島と鞆(広島県福山市)を領有する49万8千石の大大名になった。
 正則が堀川を開削したのは、絶頂期であったこの広島城主の頃で50歳であった。

 
  ◇改易……最後は自刃との伝承
 しかし、徳川幕府が安定するとともに、外様大名の取潰策が始まった。秀吉恩顧の正則は、幕府が最も警戒した一人である。

 ついに元和5年(1619)、台風で被害を受けた広島城の修理を無断で行なったことを口実にして、今の長野県高山村(須坂市郊外)わずか4万5千石の大名に改易された。堀川開削の9年後のことである。周辺には幕府領が配され監視と嫌がらせが続いたという。
 翌6年には、息子の忠勝が早世し、2万5千石を幕府に返上して2万石となり、寛永元年(1624)7月13日、失意のなか死亡した。
   高山村には正則を荼毘にふした土地が保存され供養塔と説明板がある。地元に伝わる伝承では、正則の最後は自刃とされ「その時、天は俄かに曇り、稲妻は黒雲を呼び豪雨となった」と伝えられている。
 享年64才、天国と地獄を見た郷土出身の悲運の武将である。

 正則の死後、跡を継いだ息子の正利は3千石の旗本になったという。

福島正則 終焉の地



名古屋城 門番所の幕は中抜き十文字紋
   幕府の計略により取り潰された福島氏であるが、名古屋城の門番所では清洲城とともに受け取った中抜き十文字の幕を後世までそのまま用いていた。

 『金城温古録』に次の記載がある。
「三の丸御門番所の御幕紋。塩尻に曰く日、古き御幕に釘貫の紋あるは、福島氏の名残なりとぞと云々。
   御幕由緒
 尾州五ケ所御門番所に打有之御幕、中貫十文字之儀は、元来、福島左衛門大夫正則家紋にて、右之幕、清須の城門に打有之、御城受取之節、其儘にて請取、不相改に用ひ来る。右御番所御飾鉄炮には、織田家之紋所附居候処、享保年中(1716~36)、御家御紋附に御取替相成候ヘ共、幕之儀は、やはり中貫十文字御用ひ相成来候義に付、向後も勿論、十文字に致し侯筈、寛政5年(1736)丑7月極。

 城の顔とも言える城門近くの番所に張りまわされる幕は、葵の紋ではなく中貫(中抜き)十文字の福島氏の紋であったという。
 幕を作り直す程度の予算も無かったとも思えないが、単に旧慣に従っただけなのか、猛将として誉れ高い正則にあやかろうとしたのか、あるいは失意のなか死んだ正則の怨霊を恐れたのであろうか。
 今となっては理解できないことである。



 2007/12/16・2021/06/08改訂