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太平洋戦争による壊滅的な打撃から復興する過程で、策定から30年近く経過している運河網計画の再検討が行われた。その結果、大江川運河計画は廃止され、距離が長く事業効果が期待できる荒子川運河計画が注目された。
再検討の結果大きな計画変更が行われた。水路は荒子川とほぼ同じ位置に開削し、大正の計画では上流端は篠原橋付近で中川運河に接続する構想であったが、関西本線の八田駅の近くに船溜を設け堀留にすることになった。八田駅に堀留を計画したのは、鉄道輸送との連結改善のためである。日中戦争さなかの昭和14年(1939)に、輸送力増強のため稲沢操車場に加えて八田駅にも操車場を設け、併せて南方貨物線を新設する構想がたてられていた。しかし、戦争の激化により棚上げになり、戦後も引き続き検討が進められていた背景があったからである。
また途中で分岐し中川運河と連絡する水路と、庄内川に連絡する水路を設ける事にした。
昭和28年(1953)10月に計画変更が決まり、29年(1954)7月に都市計画事業に決定した。
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変更後の荒子川運河計画 概念図
下図『最新名古屋市地図』
昭和26年
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