都市にはその街を代表する川がある。 東京の隅田川、大阪の淀川、京都の鴨川…名古屋は堀川である。 多くの都市の川は自然の川だが、堀川は人工の川だ。名古屋の町自体も自然にできたのではなく、この地域の中心地であった清洲から町ぐるみ引っ越して造られた町である。 堀川が、どうしてどのように造られたのか探ってみよう。 |
なぜ 堀川を掘ったのか? | 自然河川はあったのか? | 何年に造られたのか? | |
どんな規模の工事だったのか? | 誰が開鑿したのか? |
開削の謎 その4……どんな規模の工事だったのか? |
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堀川の開削工事はどんな規模の工事だったのだろうか。単に城下と熱田の海をつなぐ水路を掘っただけなのか、それ以外に関連する工事も行われたのだろうか。 |
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◇堀川開削で減少した耕地 堀川が流れる村は、上流から広井・日置・露橋・古渡・五女子(ごにょうし)の5か村と熱田神領である。『寛文村々覚書』の記載では、堀川開削による農地の減少面積は次の通りだ。 |
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上流部の広井村と日置村は堀川だけでなく侍屋敷地にも耕地が転用されているので、堀川による減少面積は不明である。堀川により減少した古渡村と五女子村を見ると、平均減少幅は120・136mである。 このあたりの堀川の幅は25〜30m、両岸の道路を加えても70〜80m程度しかない。その差の50mはどうして発生したのだろうか。また、120mはどこまでだろうか。 |
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◇掘削土で江川まで宅地造成 堀川を掘ることで大量の土砂が発生する。現代ならダンプカーで掘削土を遠い埋立地へ運ぶことができるが、この時代は近隣で処分するしかない。堀川の開削に併せて両岸に道路を築造し、さらにその先まで掘削土を敷き均したと考えられる。 古渡村まで、堀川と江川はほぼ平行して流れていた。堀川左岸の道路東端から西に向かって120m行くと、ほぼ江川に達する。また、江戸時代の地図では、堀川と江川の間には千石以上の武士の下屋敷が並んでいる。堀川の土は江川までの田畑に敷き均されて藩有地となり、その土地は武士の屋敷に利用されたのである。 堀川の開削は単に堀川を掘っただけでなく、沿川地域の宅地開発も併せて行われた事業である。昭和の初めに中川運河が開削されているが、このときも掘削土を両岸に盛り工場敷地を造成している。この二つの運河は同じ手法が採用されているのである。 |
『尾府名古屋図』 |
開鑿の謎 その5……誰が開鑿したのか? |
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◇福島正則が御普請総奉行として開鑿 堀川は、福島正則が御普請総奉行として開削したと言われている。 名古屋城の天守閣は、加藤清正が一人で請負い建設したと記録されているが、堀川も正則が一人で請負ったのだろうか。 ◇御普請総奉行とは? 記録では一人で請負ったと書かれたものはなく、「御普請総奉行」として開鑿したとあるだけだ。 不思議なのは、総奉行という役職である。御普請奉行は土木工事を担当する責任者で色々なところで出てくるが、御普請総奉行という役職は珍しい。どんな役だっただろうか。 「総」が付いているのは、何人もいる御普請奉行の上にたち、統括する役だったと考えられる。では、正則の家来を何人も御普請奉行に任命し、その統括をしたということだろうか。そうならば正則家内部のことなので、何も総奉行と断る必要はなく、単に正則が開鑿したと書かれるはずである。 総奉行としたのは、配下の御普請奉行は正則の家来ではなく、他家の御普請奉行だったからであろう。 名古屋築城は20の外様大名によるお手伝い普請として建設された。そして築城工事をするにあたり、上記「何年に造られたのか?」の所に記載したように、先行して排水路を造り堀などを掘削したところに溜まる水を排除しなければ堀や石垣の工事ができない。排水路建設はお手伝い普請の大名たち全員の課題だった。このため、各大名が担当する御普請奉行を決め、その統括を正則が行い、このため総奉行という役職で呼ばれたと考えられる。 掘削工事は工区割をしてお手伝い普請をする大名ごとに担当工区を決め、それぞれの藩の御普請奉行がその指揮をし、正則は各藩の調整や全体の統括をするという役割であった。無論正則もお手伝い普請を命じられた大名の一人なので、一部の工区で掘削を担当している。これにより堀川の形がほぼ完成した。 現代風に言えば、各藩の御普請奉行は工区長、御普請総奉行の正則は事業本部長というところであろう。 ◇先方衆などが 排水路を運河に 慶長15年(1610)の築城工事の際に造られた排水路を、翌16年(1611)1月に大工棟梁の岡部又右衛門らが水深測量などをし、それを元に運河として使用するのに必要な改修計画をたてた。 翌2月からお手伝いを命じられた伊勢と美濃の先方衆、及び三河の在国衆と、それに加えて前年の名古屋城建設でお手伝いをした20の外様大名が1000石に付き一人の割合で出した人夫の協力で改修工事をして堀川が完成した。 この改修工事も正則が指揮を執ったかどうかは不明だが、先方衆などに手伝いを命じたことしか記録されておらず、正則は手伝いの人夫を出しただけの可能性が高い。前年の排水路工事で堀川の原型ができており、当初の堀川は素掘り(護岸がない川)だったこともあって、水深の不足しているところの増浚や屈曲の補正など、比較的軽微な工事だったと考えられる。お手伝いを命じられたのが大名よりはるかに経済力が低い先方衆だったことがそれを裏付けている。 |
2007/11/17・2024/06/23改訂 |
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