御幸道路がとおる
景雲橋
 外堀通が堀川を越えるところに架かるのが景雲橋である。
 変わった名前だが御幸道路がとおる橋なので、中国の古典からとった縁起のよい名がつけられたのである。


 御幸道路の整備  景雲橋の架設



御幸道路の整備
 橋の名は、孔子の言動を記した『孝経』の「王者徳至山陵則景雲出」、及び晋王朝の歴史書である『晋書』の「景雲太平之応」から付けられた。「景雲」とはめでたい事の前兆として現れる雲のことである。

 橋が架けられたのは大正2年(1913)のことだ。名古屋城の本丸は明治26年(1913)6月に離宮になり、たびたび天皇や皇太子などが宿泊された。駅から離宮までのルートは広小路通から本町通経由であった。大正2年に江川線と片端筋を改修し、堀川に橋を新設して「御幸道路」にする事業が行われた。このルートは従来より7町(763m)距離を短縮でき、工事にあたって宮廷から下賜金が与えられ、更に拡幅を求められた。


景雲橋架橋前 『名古屋市実測図』 明治43年

景雲橋架橋後 『名古屋市街全図』 大正6年




景雲橋の架設
◇栗田組が施工
 景雲橋の工事は道路と同じ大正2年(1913)に完成し、今も欄干が再利用されているモダンな納屋橋への改築を請け負った栗田組が行っている。

 大正2年3月6日に契約を締結し4月1日に工事を始めた。『扶桑新聞』には工事費は35,000円で、干潮以下15尺(4.5m)に掘り下げ、連日100名以上の人夫が昼夜兼行で施工予定と書かれている。
 木鉄混用橋で、長さが13間5尺(25.2m)、幅が8間(14.6m)で、橋の4隅と中央に合計8基のガス灯が設置された。

 設計は、名古屋市の土木技師伊藤千代太である。この橋は昭和44年(1969)に現在の橋へ架替えられたが、残されている写真を見ると、景雲橋から4年後の大正6年(1917)に架け替えられ今も使われている中橋と同様に、橋脚は細い鉄骨を組み合わせてリベットで留める造りとなっている。二つの橋は同じ設計者の手によるものかも知れない。


旧景雲橋の橋脚

中橋の橋脚
◇渡り初め
 10月22日に渡り初めが行われた。150名の来賓が参加し、藪下町の平松とめ(102才)と上長者町の中島重二郎(101才)が先導した。御園門入口左側の空き地にテントを張って祝宴が行われ、沿道の町々は踊りや浪花節・子ども相撲などの余興を行い、瀬戸電は電飾の車両を走らせた。


完成間近の景雲橋


渡り初め
◇現在の橋に架け替え
 永年親しまれてきた景雲橋だが、老朽化と拡幅のため昭和44年12月に架け替えられた。橋長が35.8m、幅員が29.1mの鋼製桁橋である。
 なお、北側に並行して架かるパイプは、上水を送る水路橋である。




 2022/11/25