中川運河の前身は中川と笈瀬川。上流部が笈瀬川で下流部が中川だったと言われている。では、その境界はどのあたりだったのだろうか。 |
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中野外新田の村絵図を見ると、中央を流れる川には「笈瀬川通リ」と書かれている。一方、『尾張徇行記』の中野外新田の記載には「中川」と書かれている。一体どちらが正しいのだろう?。 『尾張国町村絵図』収録の村絵図(原本:徳川林政史研究所所蔵)の村絵図を見てみよう。 中野外新田より上流の絵図では、中野村は「笈瀬川筋」、丸米野村は「笈瀬川通リ」、五女子村は「笈瀬川」、二女子村は「笈瀬川通」、長良村は「笈瀬川通リ」と記載されている 下流側では、熱田新田は「中川通リ」、熱田前新田は「御川 中川」となっている。 また『尾張徇行記』の丸米野村の記載では「中野外新田ノ橋ヨリ南ヲ中川卜云」と書かれている。 |
『中野外新田村』 |
『中野村』 |
『丸米野村』 |
『五女子村』 |
『二女子村』 |
『長良村』 |
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『熱田新田』 |
『熱田前新田』 |
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現在の川の名は河川法などで使われているのが正式名称でそれ以外は通称だ。しかし、江戸時代はそのような制度がないので、正式の名前はなく人々が呼ぶ名が名前で、一つの川にいくつもの名が付いているのも普通だった。 これらの村絵図は村の庄屋が作成して藩に提出した物なので、村人が呼んでいた名が書かれている。中野外新田から上流の住民たちは笈瀬川、下流側は中川の呼称を使っていた事が覗われ、両呼称の境界は百曲街道だったのである。 |
2024/02/15 |
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