堀川岸に近年まで残っていた 新堀放流口跡 平成24年撮影 |
|||
笈瀬川は排水能力が低く、周辺の人々は水害に悩まされていた。このため、江戸時代に笈瀬川から堀川ヘ放流するバイパスが、現在の山王橋上流と尾頭橋上流で放流する2系統造られている。 |
溢れやすく 水が引きにくい 笈瀬川 | 三間杁筋(無三殿の杁筋) | 新 堀 |
この杁はきれいな水が流れ、「無三殿大神」と書かれた大きな石があった。痔の治療にご利益があるとされ多くの人々が参拝したという。この石は昭和9年(1934)に日置橋西の鹽竃神社に移されている。 また、『尾張徇行記』の稲葉地村の項に「古ノ小栗街道ハコヽ(東宿)ヨリ上中村・米野村・露橋村・古渡村ヘカヽル。今ノ無三戸杁ノ辺古街道ノ由」と書かれ、付近に小栗街道が通っていたとしている。 |
「無三殿大神」の神石を祀る祠 塩竈神社 |
||
◇江戸時代初期の整備 この放水路が造られた時期は不明であるが、江戸時代初期に編纂された『寛文村々覚書』の露橋村のか所に「新堀割用水樋 壱ケ所 公儀より御掛ケ被下。新堀割ニ板橋 壱ケ所 公儀橋、掛人足、百姓自分」と書かれている新掘割がこの放水路と考えられ、江戸時代初期に整備されたものであろう。 ◇昭和初期 下水道整備で消滅 明治34年(1934)になると、堀川ヘの放流口のすぐ下流に山王橋が架けられた。昭和4年(1929)に西部下水道幹線築造工事の認可があり江川の暗渠化工事が始まり、同じ時期に笈瀬川で中川運河にならなかった区間も暗渠化工事が始まった。8年(1933)3月に露橋下水処理場とともに完成し、この事業により三間杁江筋(無三殿の杁)は姿を消した。 |
2024/04/13 |
|