低湿地帯を流れる笈瀬川
堀川岸に近年まで残っていた 新堀放流口跡
平成24年撮影
堀川ヘの放水路

 笈瀬川は排水能力が低く、周辺の人々は水害に悩まされていた。このため、江戸時代に笈瀬川から堀川ヘ放流するバイパスが、現在の山王橋上流と尾頭橋上流で放流する2系統造られている。


    溢れやすく 水が引きにくい 笈瀬川   三間杁筋(無三殿の杁筋)   新  堀



溢れやすく 水が引きにくい 笈瀬川
 笈瀬川は名塚村(現:西区名塚町)の排水を集めて流れだし、押切村(現:西区押切)・牧野村(現:中村区太閤)・露橋村(現:中川区露橋)などを経て南へと流れて海へ注いでおり、下流部は中川と呼ばれていた。
 川幅は下名古屋村(現:西区菊井など)で3間(5.5m)、日置村(現:中川区広住町)では4間(7.3m)程で普段の水深は1尺5寸(45㎝)ほどの川であった。
 上流部では主に排水に、南部の新田地帯では用水にも使われていた。

 川は直線距離で11㎞ありながら高低差はわずかに3mという勾配の少ない川である。しかも河口近くは干拓新田のため満潮になると海面の方が高くて排水できないという状態であった。このため一旦大雨が降ると溢れやすく、溢れた水が引きにくい川なので周辺の住民は困っていた。

 このため、江戸時代になると三間杁筋(無三殿の杁)と新堀の2つの放水路が造られて、笈瀬川の水を堀川ヘ放流するようになった。
 この地域に造られた理由は、笈瀬川と堀川が一番接近している場所なので工事がしやすいことと、露橋村の北西で庄内用水の米野井筋が笈瀬川に流入していて水量が増えるので負荷を減らす必要があるからである。


明治24年 1/50000
(地図の縮尺の関係で幅が狭い上流部は描かれていない)



三間杁筋 〔無三殿(むさんど)の杁筋〕

 露橋村で笈瀬川から分流して堀川ヘ水を放流するバイパスが造られた。

◇当初は幅3間、後に4間に拡幅
 『尾張徇行記』には次のように記録されている。
 「此村前ニテ笈瀬川分水アリ、是ヲ三間杁江筋卜云、今ハ巾四間杁ヲ以テ堀川へ水ヲ落セリ、然レトモ先年ヨリノ伝ヲ以テ三間杁筋卜云」
 当初は川幅が3間(5.5m)だったので、三間杁江筋と呼ばれており、江戸後期には4間(7.3m)に拡幅されていたけれども名前は従来通り変わらなかったとの事である。

◇江川との交差点、痔疾に御利益
 この水路は東隣の古渡村で江川の下を伏せ越して堀川ヘと流れ込む。江川と立体交差するところに設けられたのが三間杁で、北西に松平無三(康久、2,500石)の下屋敷があった事から、通称「無三殿の杁」と呼ばれていた。


『露橋村絵図』 1847年


『日置村絵図』 1841年
 この杁はきれいな水が流れ、「無三殿大神」と書かれた大きな石があった。痔の治療にご利益があるとされ多くの人々が参拝したという。この石は昭和9年(1934)に日置橋西の鹽竃神社に移されている。

 また、『尾張徇行記』の稲葉地村の項に「古ノ小栗街道ハコヽ(東宿)ヨリ上中村・米野村・露橋村・古渡村ヘカヽル。今ノ無三戸杁ノ辺古街道ノ由」と書かれ、付近に小栗街道が通っていたとしている。 

「無三殿大神」の神石を祀る祠
塩竈神社
◇江戸時代初期の整備
 この放水路が造られた時期は不明であるが、江戸時代初期に編纂された『寛文村々覚書』の露橋村のか所に「新堀割用水樋 壱ケ所 公儀より御掛ケ被下。新堀割ニ板橋 壱ケ所 公儀橋、掛人足、百姓自分」と書かれている新掘割がこの放水路と考えられ、江戸時代初期に整備されたものであろう。

◇昭和初期 下水道整備で消滅
 明治34年(1934)になると、堀川ヘの放流口のすぐ下流に山王橋が架けられた。昭和4年(1929)に西部下水道幹線築造工事の認可があり江川の暗渠化工事が始まり、同じ時期に笈瀬川で中川運河にならなかった区間も暗渠化工事が始まった。8年(1933)3月に露橋下水処理場とともに完成し、この事業により三間杁江筋(無三殿の杁)は姿を消した。



新   堀

 江戸時代初期に三間杁筋(無三殿の杁筋)が造られたが十分ではなかった。

◇1700年代 放水路を増設
 大雨の時に排水できず、溢れた水に浸かって作物が腐ってしまうのに困り果てた村々が相談して、正徳元年(1711)〔寛保元年(1741)説もあり〕に二女子(ににょうし)村(現:中川区笈瀬町)で笈瀬川から分水して佐屋街道に沿って流れ、江川の下をくぐって尾頭橋の近くで堀川へ流れ込む水路を掘った。
 堀川への落ち口には2間(3.6m)の杁が設けられ、新しく掘った川なので「新堀」と呼ばれていた。
 水路の開削により農地が潰されたため、土地所有者には関係する村々から毎年「井領米」と呼ぶ土地使用料が払われた。

◇近年まで残っていた痕跡
 この放水路も中川運河の開削と下水道の整備により上流部は昭和初期(1926~)に姿を消したが、江川より東は残されていた。昭和2年(1927)から堀川の抜本的な改修が始まり8年(1933)度に完了したが、その頃はまだ新堀が使われていたので、堀川ヘの放流口は残して護岸改修が行われ、その後役割を終え放流口は封鎖された。
 近年まで尾頭橋上流右岸にその痕跡が残っていたが、平成の堀川整備により姿を消した。


『二女子村絵図』 1841年


『五女子村絵図』 1846年


昭和6年 『名古屋市街全図』
江川から東はまだ残っている





 2024/04/13