宝珠の光 万世不変
日 置 橋
 日置橋は堀川開削当初にかけられた堀川七橋の一つである。
 あまり注目されることがないが、橋の擬宝珠は明治14年(1881)に架け替えられた時のものが、その後に2回の架け替えがあったにも拘わらず今も使われている。擬宝珠には架け替えにあたり資金を拠出した人々の思いが籠もっているので残されたのである。


    明治以降 3回架け替え   宝珠の光 万世不変



明治以降 3回架け替え
 日置橋は堀川開削当時に架けられた「堀川七橋」の一つである。
 橋は黄色い欄干が目立つが、これは後になって両側に付設された歩道橋で、車道になっている中央部分が本来の日置橋である。
 昔は腐りやすい木橋だったので何度も掛け替えられている。明治以降では明治14年(1881)に架け替えられたが、10年後の24年(1891)の濃尾地震で破損したので架け替えている。現在の橋は昭和13年(1938)に鉄筋コンクリート橋で架け替えたものだ。

 橋は石の欄干と擬宝珠がついているが、 堀川に架かる橋でこのような和風の橋は五條橋と日置橋だけである。五條橋は昭和13年(1938)8月の竣工で、日置橋は翌9月の竣工だ。構造も五條橋はコンクリートラーメン橋、日置橋は橋脚と橋台の間はコンクリート桁橋だが、二つの橋脚の間はコンクリートラーメン橋なのでよく似た構造である。二つの橋は同じ時に架け替えられた兄弟のような橋でどちらも歴史的な価値のある橋なのだが、日置橋はさほど注目を浴びていないのが残念である。

 なお、平成23年(2011)に名古屋市の認定地域建造物資産に指定されている。


橋脚と橋桁が一体でつくられた
コンクリートラーメン構造




宝珠の光 万世不変
◇親柱に二つの年号
 石の親柱には、面白い事に二つの年号が掘られている。明治14年(1881)と昭和13年(1938)だ。
 擬宝珠をかぶっている。四つの擬宝珠の内、一つは後の時代に補作したものだが、三つは明治14年のものだ。古色蒼然としさびや傷も多く読みにくいが、文字が一杯刻まれている。
 ほとんどは人の名だ。明治14年(1881)の改築にあたり、資金を寄付した人たちである。最後に「百折一道達三重縣 寶珠之灮(こう)萬世不變 森邨宜民撰」とある。折れ曲がりながらも遠くをつなぐ大切な道。その道に架かる橋の架け替えに協力した人の心意気を称え、末代まで橋が役立ち人々の功績が伝えられる事を祈念する気持ちがこもった言葉だ。

◇森邨宜民
 撰者の森邨宜民は、『名古屋市史』によると、森村大朴ともいう尾張藩の漢学者だ。明治2年(1869)に明倫堂の漢学一等助教となり、4年(1871)に廃止されると小学校の教授、16年(1883)から愛知県中学校(現:旭丘高校)の教師を務めた。

 擬宝珠は苦しい生活のなか資金を提供した人々の名と、当代一流の学者の撰分が刻まれた貴重なものだ。だからこそ昭和の改築にあたり設計者は、親柱に年号を追記しただけで親柱と擬宝珠をそのまま残したのである。


二つの年号を刻んだ親柱

献金者の氏名を刻んだ擬宝珠

森邨宜民の撰文

『森村大朴先生』




 2021/09/16