桜の名所  
『桜見与春之日置』
日置橋界隈
 今の若宮大通から日置橋の南まで、かつて堀川岸には桃と桜が植えられて名古屋きっての花見の名所であった。華やかな風景は多くの絵に描かれて、当時の人々が春の一日を楽しんだ様子を伝えている。


    桜と桃の植栽   大賑合 繁花のごとし   坪内逍遙も花見



桜と桃の植栽
 江戸時代の日置橋周辺は花見の名所として賑わった。
 文化年間(1804~18)に、御普請奉行の堀彌九郎が日置橋の南北両岸に桃と桜の苗木を植え、生長すると城下からほど近い場所なのでたくさんの人が花見に押し寄せた。

 花見風景を描いた『桜見与春之日置(サクラミヨハルノヒヨキ)』を著した高力猿猴庵は植えられた当時を思い出し次のように書いている。
 「文化年間に植えたときは2~3尺(60~90㎝)の小枝のような木だった。それを見て、自分はもう50才を過ぎているのでこの木に花が咲くのは見ることができないだろうと思った。しかし、思いがけなく盛りの花を見ることができた」

 猿猴庵は宝暦6年(1756)の生まれなので、文化2年(1805)が数えで50才。当時は「人間50年」と言われ、既に高齢者である。その頃に堀川に桃と桜が植えられた。
 文政5年(1822)には茶屋の設置も許され、たいへんな賑わいとなっている。猿猴庵は天保2年(1831)に亡くなっている。屋敷は大須観音駅の北西なので、堀川へ花見に行くにはうってつけの場所であり、猿猴庵は10年ほど花見を楽しんだことと思われる。


『桜見与春之日置』
舟に乗っているのは御普請奉行?

『安政名古屋図』




大賑合 繁花のごとし
 また、猿猴庵は『尾張年中行事絵抄』に、次のように書いている。
 「春暖和風の花盛りには、橋の南北、桃とさくらの色をあらそひ、花見の貴賎、街(ちまた)に集ひ、遊山の船のぞめき、三弦、太鼓、はやし立、諷(うた)ふもあれば、おどるもあり、風流の仮茶屋、屋体(やたい)店、さまぐの辻うりの床机をつらねしさま、其賑合いふばかりなし。或は朝霞の花、夕栄(ばえ)の粧ひ、夜桜を愛し詠吟を催し、又は、一盃のみかける、実に雅俗を論ぜざるの壮観にして、遊興は、こゝに過たるはあらしかし。」

 『猿猴庵日記』では、「又、屋形舟などにて見るも有。四ツ乗(小型の舟)等は数不知。天王崎の下の辺に、渡し舟も出来、毎日、夜分迄、大賑合繁花のごとし」。
 川面には、多くの花見舟がのどかに行き来し、対岸に渡る人のために渡し舟も営業していた。京から来た旅人がこの風景を見て「かほどの長き並木の桜は都にも稀なり。東国にての珍らしき花見なり」と感嘆したという。


堀川花盛 『尾張名所団扇絵』

堀川日置橋より両岸の桜を望む図
『尾張名所図会』

太夫堀川並桜
『尾張年中行事絵抄』

日置橋の花見群衆 『桜見与春之日置』




坪内逍遙も花見
 明治になっても花見は続いた。
 明治の文豪坪内逍遙は明治2年(1869・11才)から9年(1876・18才)まで笹島で暮らした。子どもの頃の思い出を書いた『私の寺子屋時代』に、舟で花見をした事を書いている。

 「水といつては、海こそは約一里の南に伊勢海へつゞく尾張湾を控へてゐたが、河は堀河(堀川)の名にし負ふ人工のものがたつた一流れあるばかり。けれども名古屋としては、それが其街を貫いて流れる最大の水であつたので、其やゝ河下の両岸に植附けられて年を経た桜の老木は中々見事で、堀河の花見といふ江戸の向島のそれ扱ひ、私が11・2から14・5頃までは、折々父母と共に屋形船なぞに乗つて、見に行つたのを思ひ出す。」

◇明治28年頃はまだ名所
 逍遙が見た桜は植えられて70年近くたち、既に老木となっていた。
 いつごろに花見ができなくなったかは不確かだが、明治28年発行の『名古屋明細全図』余白に書かれている名古屋の名所一覧には桜の名所として堀川が挙げられている。

 なお、安政7年(1860)には、上流の長畝(三の丸西側の堀川岸)にも桜が植えられ、名所となっている。

『名古屋明細全図』 明治28年




 2021/09/18