朝日橋から景雲橋の堀川東側は川に沿って道路や民家・事業所があり、その東は土手の向こうにNTT・丸の内中学・県立図書館が並んでいる名古屋城三の丸の一角である。 お城だから、戦闘を前提に造られているはずだ。城の北から西にかけては大きな水濠、南は外堀、では、この西側はというと……お堀がない。道路を挟んで堀川が流れているだけだ。 一体どうしてこのような構造になっているのだろうか。 |
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◇東岸の道路 元は空堀 堀川があるからお堀は省かれたのであろうか。 そうではない。堀川東岸の道路は、元はお堀だったのである。 今の道路の位置が空堀で、それに沿って堀川が流れ、その間は土手(畝)になっており、長畝と呼ばれた。 西側から名古屋城を攻撃するには堀川と空堀の2つを越えなければならない。ここは二重掘になっていたのである。 人は姿勢を変えるときに隙が生じ、攻撃を受けやすくなる。登ったり降りたりを繰り返す二重堀は堅固な防衛施設で、他の城でも見ることができる。お城が築かれた頃はまだ豊臣氏が大阪で強い勢力を持っており、西への備えはとりわけ入念に行われたのである。 |
『名古屋明細地図』 明治19年 |
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◇江戸時代末期 長畝に桜並木 平和が続いた江戸時代も終わりに近い安政7年(1860)2月、戦争に備えた防御施設として造られたこの長畝に桜が植えられた。 城下に近い花見の名所となり、対岸(堀川の西側)には茶屋・料理屋・菓子屋ができ賑わったという。下流の日置橋周辺とともに、人々の憩いの場所になったのである。 |
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長畝には桜が植わっている 『尾張名所図会』 |
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◇名古屋の絶景 大吉楼 この地域でとりわけ有名だったのが「大吉楼」である。『名婦之里』に「名府絶景の内 大吉楼夕景」として紹介されている。 金鯱が輝くお城を左手に、その下には「ざーざー橋」と呼ばれた朝日橋が描かれ、堀川の向こうには今を盛りと咲き誇る桜並木、そして大吉楼上では芸者と幇間を揚げたお大尽が春爛漫の夕景色を肴に一杯きこしめしている。うらやましい光景である。 |
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大吉楼夕景 『名婦之里』 |
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◇明治末 長畝は下水工事の資材置き場に この桜は明治の頃まで残っていたが、いつの頃かなくなり、空堀も名古屋に下水道を造るため、土管などの資材置き場として明治42年(1909)に埋め立てられ、その後道路や民家に姿を変えた。 |
2022/11/25 |
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