城下町の排水
『御船御行列之図』
紫  川
 若宮大通の所を、かつて紫川が流れていた。城下町の雨水や排水のほとんどは、この紫川で堀川へ排水されていたのである。
 元は名古屋台地から流れ出す自然河川で、優雅な名前は紫式部に由来するとの説もある。


    城下町の排水 ほとんどは紫川    なぜ 「」川?



城下町の排水 ほとんどは紫川
◇城下の水を集めて堀川へ
 城下の家々から出る排水や雨水は、家の前の狭いドブを流れて、本町通と伏見町通のそれぞれ少し東に設けられている背割水路へ流入する。
 この南北の水路は南へ流れて広小路の南に設けられている幅2間(3.6m)以上という巨大な排水路へ一旦流れ込む。この水路は堀切と呼ばれ、広小路が拡幅される以前の通りの呼び名は堀切筋であった。
 堀切の水は2か所で南へ流れ出し、合流した後さらに南へ、その後向きを変えて今の若宮大通の所を西へ向かい堀川ヘ注いでいた。
 この排水路の下流部は紫川と呼ばれていた。

 伝馬橋の南で堀川へ流入する短い水路があるものの、碁盤割の排水のほとんどを紫川が担っていたのである。
 何か所かに橋が架けられていたが、長さが2間1尺6寸(4.1m)から2間4尺(4.8m)なので、川幅はそれに準ずる広さであろう。



『名古屋城下図』 元禄7年(1694)
◇開府以前は自然河川
 紫川は名古屋開府以前にあった自然河川を排水路に利用したものである。
 開府以前の名古屋台地は山あり谷ありの地形であった。「音に聞こえし名古屋の山を 引きや均した肥後の衆が」という俗謡があったという。名古屋の街を造るにあたり山を削り谷を埋めて造成工事が行なわれたが、流れていた川を市街地からの排水路として残したのが紫川である。このため、今も地形図を見ると紫川の谷筋ははっきりと残っている。

 名古屋台地の水を集めて流れる開府以前の紫川は、ある程度の水量が有ったようだ。
『尾張名所図会』は女の子の歌う手まり歌「むらさき川へ身をなげて、身は身で沈む、小袖は小袖で浮いて行く……」を紹介し、昔は身が沈むほどの川だったようだが、今は小川と書いている。

 
5mメッシュデジタル地図で作製
   また『尾張名陽図会』は傳光院の地は寺が建立される以前は紫川の淵になっていた所で、成瀬氏(尾張藩家老)が昔、淵で馬を洗ったことから「成瀬ヶ淵」と呼ばれるようになったという説を否定し、川波の音から「鳴瀬ヶ淵」と言う名が付いたのが正しいとしている。




なぜ 「」川?
◇村の前? 紫式部?
 紫川という優美な名の由来も、いろいろな説が伝わっている。

 一つは名古屋村の前を流れていたから「村前(むらさき)川」だったのが「紫川」に表記が変わったという説だ。
 『尾張名陽図会』は他の村にも川は流れているのに名古屋村だけが「村前川」なのは不自然とし、紫式部の召使いゆかりの名前という説を紹介している。
 「この地は紫式部が召し使っていた者の故郷で、その者が帰郷して式部の霊を祀るために川の畔に五輪塔を建てた。それにより紫川と呼ばれるようになり、傳光院の境内に建つ古い五輪塔はその塔である」
 なお、傳光院は現在千種区へ移転している。

 『尾張名所図会』は名陽図会と同様に紫式部の墓という話を紹介し、古い書物の記載や確かな伝承がないのでよく分からないとしている。

◇大須遊郭の隠語
 紫川は大須遊廓(旭遊廓)の隠語としても使われた。

 泉鏡花の『紅雪録』は東京から来た男が名古屋で1晩過ごして翌日帰京するとき、名古屋駅で赤帽と話をするシーンから始まるが、次の場面がある。

 (赤帽)「そりゃ.最(も)う一向詰りません、別に見るやうな處はありませず、名所も景色もございませんので。」
 (客)「否(いえ)、なかなか然(そ)うぢゃないよ、前津も佳し、大池も佳し、此の電車の通る正面にすッくり記念碑の立った處なんざ、西洋へでも行ったやうだ、田舎漢(もの)は目を驚かす。それに紫川といふ名所があるぢゃないか、第一君たちの名所だらう。」

『築港図名古屋測図』 明治41年
 (赤帽)「御串戲(ごじょうだん)おっしやいまし、……略…… 何の旦那、紫川なんて、名所どころか、金銀を棄てる溝(どぶ)でございます。」
                     ……略……
 (赤帽)「えゝ、饂飩(うどん)の煮込が、彼處は名物でございまして、火鉢ごと座敷へ持出して喰はせますが、閑靜な佳い處でございます。牡丹亭へおいでなさいましたのでございますか。」
 (客)「あゝ、牡丹亭へも行った、紫川へも嵌(はま)ったさ、」




 2021/10/15