名古屋駅の東口から都心をまっすぐ東に貫く大通り、桜通。
 他所からいらした方は、桜並木が続く大通りを想像していたのに、いちょう並木なので意外に思われる。華やかな名前をもつこの通りが堀川を越えるのが桜橋。桜は植わってなくとも、桜橋の欄干はいつも桜が満開である。

    な ぜ 桜 通 ?   名古屋駅移転の時に誕生   戦災復興事業で拡幅・延長
    桜が満開の桜橋    



な ぜ 桜 通 ?
   桜並木がないのに桜通。どうして桜通と名付けられたのだろう。
 この通りは昔 「桜の町筋」と呼ばれていた。この通りを東へ行くと本町通と交差する手前南側に天神様を祭る天満宮がある。かつては周辺には桜が多く花見で賑わった、あるいは神木に桜の古木があったことから「桜天満宮」とか「桜天神」と呼ばれていた。このため、この前の通りが「桜の町筋」と呼ばれるようになり、この「桜の町筋」を拡幅整備した現在の道路は「桜通」と名付けられたのである。
 元となった道は江戸時代からの碁盤割の道で、堀川で行き止まりになる巾3間(5.5m)ほどの狭い道であった。
※ この通りは時代や地域により、菅原町、西菅原町、桜町とも呼ばれた。菅原町はもちろん、天神様=菅原道真にちなんだ名前である。
 

「サクラノ丁筋」
『天明年間名古屋市中支配分図』
天明(1781~8)

改修前の桜の町筋
(都市センター所蔵)



名古屋駅移転の時に誕生
   整備されるきっかけは、名古屋駅の移転である。それまで笹島交差点の北にあった名古屋駅が現在の地に移転するのに合わせて、都市計画事業と名古屋駅前土地区画整理事業が行われ、そのなかで駅前広場や桜通が整備されたのである。昭和12年に完成し、伏見町以西は道幅が24間(43.6m)、以東は18間(32.7m)で整備されたが、東端は大津通までであった。

 道路の整備に合わせて堀川に架けられたのが桜橋。
 太平洋戦争の時の金属供出で橋灯などは架設時と姿を変えたが、本体は今も昔の姿を伝えている。
 
 

完成した新名古屋駅と桜通
当時の絵はがき
  『名古屋市街全図』 昭和5年
『名古屋市街全図』 昭和12年

完成した桜橋(橋灯は今と異なる)
(都市センター所蔵)


戦災復興事業で拡幅・延長
   第二次世界大戦で空襲が激しくなり、このあたりは「防空法」により延焼を防ぐための疎開空地帯に指定され、建物を強制的に取り壊し空地になっていた。
 戦後になり、「復興都市計画街路(幹線)計画」が昭和21年6月に決定され、この疎開空地帯も利用し、将来の自動車交通普及も見越して伏見町以東を幅員50mに拡幅し、東端も現在の名古屋環状線まで延長された。これにより、今の桜通になったのである。
 
 
緑色の破線が拡幅・延長予定の桜通  『名古屋市復興都市計画図』 昭和20年代



桜が満開の桜橋
 
 桜橋の設計者は、とことん桜にこだわってデザインしたようで、橋のいたるところに桜のモチーフが使われている。
 桜橋は、いつも桜が満開である。 

橋名板に桜

橋灯に桜

欄干のレリーフに桜と川の流れ

スズラン灯の
台座に桜

スズラン灯の受け座に
桜の花びら

欄干に桜

欄干のレリーフに桜と川の流れ
 



 2021/05/23改訂