地下鉄と一体で造られた 錦橋
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◇艀や筏で混雑する堀川
東山線の工事は地上から掘り下げてトンネルや駅舎を建設し完了後に埋め戻す、開削(オープンカット)工法が採用された。
一番の課題は堀川を横断するところをどのように施工するかであった。この時代は今ほどトラックは普及しておらず、大量輸送は艀が一番効率的であり、昭和29年(1954)の堀川では出船・入船がそれぞれ年間5,200隻を越えるという混雑である。1日に28隻余の船が通航し、これに加えて川岸の製材所へ向かう筏もたくさん通っている。
◇どうやって地下鉄を造る?
工事は、この通航を確保しながら進めなければならない。
堀川を中央で仕切り、半幅ずつ施工することも検討されたが、必要な航路幅8mを確保することがどうしてもできなかった。一定期間だけ艀や筏の通航を止める事も検討し関係者と協議したところ、莫大な補償金が必要で実現不可能となった。
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◇潜函工法で 地下鉄のトンネルと橋の橋台
このため地下鉄工事では珍しい潜函(ケーソン)工法が採用される事になった。
これは地上部で底のない函(箱)を造り、内部の土砂を掘り出して少しずつ箱を沈めて地下構造物を造る工法である。堀川をはさんだ東西104mの区間に5基の潜函を沈め連結してトンネルを造る工事だ。5基の潜函のうち堀川の下になる2基には錦橋の橋台(岸で橋を支える台)も潜函と一体で造ることにした。
地上に大規模な作業スペースが確保され、鉄筋コンクリートの潜函が造られ始めた。長さが20m、幅が10m、高さが8mと言う巨大なコンクリートの箱で、橋台部はその上に土留め壁が付く。
潜函ができると掘削・沈下作業が始まる。潜函の底にある作業室に潜函夫10人が1組で2組が入り、潜函の下を掘るのだ。7時30分から23時30分まで2交代で作業が進められた。小砂利混じりの砂なので掘りやすく、主にスコップで掘っていた。1日に100㎥程の土砂が掘られ、鉄製のバケットに入れて高さが12mあるシャフトを通って搬出された。下の土砂がなくなった潜函は1日に40~50㎝沈下してゆく。1日2回、中心線や水準の測量をして、設計どおりの位置に潜函が下りるよう作業方針が決められ潜函夫に指示が与えられた。
所定の位置まで潜函が下りると、作業室にはコンクリートが流し込まれシャフトなどを撤去し穴は閉鎖される。
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工事風景 |
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昭和30年(1955)1月に始まった潜函工事は31年2月に5基とも据え付けが完了し、その後錦橋の床板や欄干など上部工の工事が行われ、昭和33年(1958)3月に橋が完成した。錦橋の橋台の一部は地下鉄のトンネルの上に乗っているのである。
また、橋を上下流から見るとアーチ橋に見えるが、アーチは両端に付けられた飾りで、本体は桁橋である。
開通から半世紀で、地下鉄は1路線2.4㎞から、6路線89.1㎞まで整備がすすみ、名古屋の都市交通の中核を担うまで成長した。 |
台形より下の部分は、
潜函工法でトンネルと一体構造 |