「川が立体交差している」と聞くと、ほとんどの人はびっくりする。道路の立体交差は、あちらこちらで見て知っているが、川のそれは見る機会が少ない。
 しかし、ずっと昔‥‥名古屋では江戸時代初期‥‥から造られておりこちらのほうが本家本元だ。川が地下にもぐって立体交差するのを伏越(ふせこし)という。

 矢田川にかかる三階橋のすぐ上流にもある。庄内用水の「矢田川伏越」がそれだ。
   


    江戸時代初期 御用水の伏越   明治になり 黒川の伏越   新技術 人造石で改築
    今も庄内川の水を    



江戸時代初期 御用水の伏越
   ここに始めて伏越が造られたのは、延宝4年(1676)のことである。庄内川から取水した御用水を矢田川の下をくぐって名古屋城のお堀まで流すためである。 
 
 
『御用水路之図』 江戸時代
 御用水は寛文3年(1663)に開削され、最初は庄内川の水を瀬古村(現:守山区)でいったん矢田川に流し込み、対岸の山田村(現:東区)で、庄内川からの水と矢田川の水が混じったのを取り入れていた。矢田川は上流に瀬戸の陶土地帯があるので流砂が多く、用水にも砂が流れ込み水路の浚渫も行ったが維持管理が難しい。このため、庄内川の水だけを流せるように矢田川の川底をくぐり抜けてお堀まで流すように造り変えた。矢田川の下をくぐる伏越は、長さ97間(約176.5m)・幅9尺(2.7m)・高さ3尺(0.9m)で、高さは低いが幅・延長とも大きなものであった。17年後の延宝8年(1680)には、さらに今の守山区側が延長されている。
 当時の伏越は木製なので、その後も腐朽するごとに何度も造り替えられた。
   ◇伏せ替えで不祥事発生
 天保15年(1844)に、請負で行われた伏越の造り替えで不祥事が発覚したことが『松濤掉筆』に記録されている。
 勘定奉行が中心となって調べたところ、現場詰所で請負業者から酒食の接待を受けたり、詰所での費用を払わなかったり、賄賂を受け取ったりしており、さらに工事で余った木材を売り払って代金を私物化したものもいた。このことが判明したので関係者の処分が行われた。全員が7~13石の切米と2~3人扶持を支給される下級武士であった。
 処分内容は、
  ・暇を出す(免職)……2人(接待・費用未払・賄賂受領・木材売払代金の私物化)
  ・切米の減額(4~6石)と配置換……3人(接待・費用未払・賄賂受領)
  ・押込(謹慎)……3人(接待・未払費用は発覚後支払)
  ・注意処分……1人(接待を断ったが上司に報告しなかった)
 この他、2人の上級武士(300石・400石)が監督不行き届きで差扣(謹慎)を命じられている。

 発覚した発端は、免職された内の1人が請負人の頭(かしら)をひどく叱りつけたことだ。悔しがった頭が人々に不正を話したので調べたところこれらの処分になった。
 『松濤掉筆』の著者奥村德義(のりよし)は、「人を辱めて大事になるのは昔からある。吉良上野介と浅野内匠頭(たくみのかみ=忠臣蔵)など枚挙にいとまがない」と書いている。

 近年も、某県の知事による「強力な職務指導」や県警本部長の「殺してやる」発言など、パワハラで失脚する事件が起きている。年月を経て技術は進歩しても、人間はあまり進歩していないようである。



明治になり 黒川の伏越
   この伏越が大きく姿を変えたのは、明治10年(1877)の黒川開削の時である。御用水や庄内用水などの水量を確保するとともに、犬山と名古屋を結ぶ航路を造るのを目的に黒川は開削された。それには矢田川伏越も舟が通れる構造にする必要がある。

この時に造られた伏越の規模や構造の記録はないが、明治24年(1891)の濃尾地震による破損で改築した後の記録が残っている。
 2本の伏越があり、上流側の東杁は江戸時代の御用水のものとほぼ同規模であるが、下流側の西杁は舟が通れるように幅が12尺6寸(3.8m)、高さ10尺3寸5分(3.1m)と非常に大きな断面になっている。黒川開削当時の伏越もこのようなものと思われる。壁には鎖が付けられていて、船頭さんはこれをたぐりながら伏越の中を進んでいった。矢田川の下は、水だけでなく舟も通っていたのである。

◇三階橋の名前は伏越から
  黒川開削の翌年に三階橋が架けられた。位置は現在の橋より少し上流で、三階橋ポンプ所西側の道と、対岸の守西ポンプ所西側の道を結ぶ橋であった。変わった名の橋だが、舟が通っている伏越が1階、その上の矢田川の流れが2階、その上に架かる橋は3階になるのでこの名が付けられたという。

 


新技術 人造石で改築
     明治44年(1911)には、当時の新技術「人造石」で改築されている。
 

「人造石」とは、日本の伝統的な「たたき」工法を、今の碧南市出身の服部長七が改良した技術で、石のように硬いことから「人造石」と名づけられた。まさ土と呼ぶ風化した花崗岩の細粒と石灰を混ぜ、水を加えて練り、棒や板で叩き締めて固める。今のモルタルのように積み石の目地に入れたり、人造石自体を固めて構造物を造ることもできた。矢田川伏越は人造石を固めて造られた。

 人造石は明治10年(1877)頃から普及し始めて全国各地で採用されている。宇部港(現:山口県宇部市)や名古屋港、神野新田(現:愛知県豊橋市)の海岸堤防など大規模な土木構造物も造られたが、施工に手間がかかるので鉄筋コンクリートの普及とともにすたれていった。


 


『人造石用水伏越構造図』
  ◇人造石伏越への改築風景 (『庄内用水元樋及矢田川伏越碑改築紀念』より)
   
旧木製伏越
左:船が通航する大型
 右:水が流れるだけの小型

 
解体した部材
人と比べると太い事が実感できる

一部解体された旧大形木製伏越

 
北半分(守山区側)の施工風景


南半分(北区側)の施工風景


出来上がった人造石伏越
(表面は保護のため石張り)
 埋め戻して完成

 
天秤棒で運搬


足踏み水車で排水

 
よいとまけで杭打ち




今も庄内川の水を
   「人造石」の伏越は、矢田川の川底の低下により頂上部が1.4mも川の中に露出するようになったので、昭和30年(1955)に取り壊され鉄筋コンクリートで改築され、さらに昭和53年(1978)に三階橋ポンプ所を建設するにあたって改築され、今は舟が通れない構造になっている。

かつての人造石伏越出口に掲げられていた銘板は、黒川樋門近くの三階橋ポンプ所敷地内に展示されている。一枚の銘板には「庄内用水 矢田川伏越樋 明治四十四年五月改築」、もう一枚の割れた銘板には「庄内用水普通水利組合管理」の文字に続いて、改築当時の愛知郡長や愛知県技手・事務員などの名が刻まれ、最後に「工事請負人 栗田末松」と彫られている。栗田末松は大正二年に竣工した石鉄混用の納屋橋架け替え工事を請け負った、当時この地方きってのゼネコンであった栗田組の親方である。

伏越は何度も造り替えられた。木・人造石・鉄筋コンクリートというように、その時代の技術により、また舟運の有無などその時代の要請により構造や姿は変わってきた。しかし、最初の伏越がここに造られた300年以上昔と同じように、今日も庄内川からの水を流し続けている。さらに300年後にはどんな姿でいるのだろうか。


   
『床止工事設計図』(昭和14年頃)
矢田川の川底が下がってきたので、
下流側に床止を設置したときの図面


かつて伏越に付けられていた銘板

 
同 左
工事関係者と請負人の名が彫られている



【参考】『地方古儀』『用悪両水鑑』『守山区史』ほか
 2004/07/01・2025/12/03改訂