水分橋のすぐ横に、ダムのようなものがある。 庄内用水の頭首工(とうしゅこう)だ。聞きなれない言葉だが、川の水位を塞き上げて用水に取水する施設のことである。市内ではここにしかない珍しい施設である。

    毎年 木や石で堰を   夢で終わった 庄内川伏越   食糧増産 頭首工の建設
    少しでもきれいな水を    



毎年 木や石で堰を
 ここで庄内用水や堀川が取水するようになったのは、明治10年(1877)の黒川開削の時からだ。
 取水には庄内川の水位を塞き上げて、水面を取水口より高くしなければならず、川を横断する堰を設ける必要がある。

『仮堰工事設計』
添付図
(明治43年)
 だが、堰は水のスムーズな流れを妨害する施設でもあり、豪雨で庄内川の水位が高くなったときには洪水の原因にもなりかねない危険性がある。ふだんは流れを塞き止め、大雨の時には流れを妨害しないという二律背反の施設を造らなければならない。
 用水路の分岐点や田へ取水するための小規模な堰は「角落し」と呼ばれるものが造られている。水路の両端に溝のある柱を建て、そこへ角材や板を何段にも積んで堰にする。大雨などの時には、角材などを外すことでスムーズに水は流れてゆく。
 だが、庄内川のような大河川ではこのような施設は造れない。ここでは、木柵と石積の仮堰が造られていた。毎年、庄内用水の取水時期になると八田川の河口から元杁樋門まで川を横断して木と石で堰を造っていたのである。大雨の時には急激な流れにより堰は壊される。雨が上がればまた補修する。毎年これを繰り返していた。



夢で終わった 庄内川伏越
 永い年月仮堰で取水してきたが、大正9年(1920)に八田川と庄内用水元杁樋門を結ぶ伏越(ふせこし、水路トンネル)が庄内用水普通水利組合により計画された。

 「庄内用水元杁前改良工事」と名づけられた、次のような計画であった。
 従来、仮堰で庄内川の全幅を閉塞してかろうじて取水してきた。しかし近年、庄内川を流下堆積する砂礫が減り河床が下がって十分取水できなくなり、仮堰では治水上の危険もある。また、用水灌漑区域の都市化により将来は耕地が減り毎年の仮堰設置費用の負担も財政的に大変になる。
 このため、木曽川からの水が新木津用水を経て流れてくる八田川と地蔵川(この頃は今の八田川の位置で庄内川に流れ込んでいた)の水を、庄内川の地下を伏越でくぐらせて庄内用水に注ぎ込む。これにより有利安全に引水し、水量と経費の節減を図るとしている。
 伏越は鉄筋管で内径4尺(1.2m)、延長 112間(204m)とし、工事費は21,436円12銭と積算された。

 この計画は、9年7月21日に組合臨時会をひらき、追加更正予算として決定された。8月11日に県へ補助申請していたが予算の都合で却下され、実現できなかった。
 もしこの計画が実現していたならば、庄内用水や堀川などに木曽川などの水が流れることになったのである。木曽川導水事業の先駆けとも言うべき計画であった。



食糧増産 頭首工の建設
 庄内川伏越計画は夢で終わり、その後も治水上の危険性をかかえたまま、仮堰でなんとか取水する年が続いていた。

 戦争が激しくなり食糧危機が迫るなか、昭和19年(1944)に頭首工の建築計画がたてられた。しかし当時の情勢では多大な経費と資材を必要とするこのような大工事は実施できず、戦後の26年(1951)になりやっと着工できた。29年(1954)3月に完成したが、1億2700万円という当時としては巨額の予算が投入されている。
 頭首工の完成により安定した取水ができるようになり、大雨の時にはゲートを開放することで安全に洪水を流すことができるようになった。永年の懸案がやっと解決されたのである。



少しでもきれいな水を
 戦後の食糧難の時代を乗り越えた日本は高度成長の時代になってゆく。
 戦争に負けた貧しい日本から脱却し、より豊かな生活を目指して人々は必死に働いた。資源が少ない日本では、輸入した資源を安く加工し、製品として世界へ輸出することが生きる道であり、各地に工場が作られフル操業していた。環境よりも原価を下げ競争力を高めることのほうが大切な時代である。拡張を続ける工場の労働力として、中学を卒業した子どもたちが集団就職で都会を目指し「金の卵」と呼ばれた。農村から都市へ多くの人が移住し、膨張する都市人口は下水などの都市基盤が十分に整備されないまま周辺部を宅地化していった。

 庄内川の流域もこの時代の流れが押し寄せてきた。工場廃水や家庭排水が未処理のまま流入し、水質が大きく悪化していったのである。かつて庄内川は巾下水道の水源になっていたほどの清流であったのが、上流の陶磁器産業や製紙工場の排水などにより、常に白い悪臭のする水が流れる川へと姿を変えたのである。昭和40年(1965)代には、BOD(生物化学的酸素要求量)が73.3㎎/ℓ、SS(浮遊物質量)が182㎎/ℓにもなった。今の堀川(小塩橋)のBODが4~5㎎/ℓであるのと比較すると、いかにすごい状態になっていたのか解るであろう。まさにドブとしか言いようのない状態である。日本中で環境問題が噴出し、45年(1970)に公害対策基本法、46年に水質汚濁防止法が施行され工場廃水の規制などが始まった。


 以後、少しずつ水質は改善されていったが、頭首工ではよりきれいな水を取水する努力がなされた。54年(1979)の導流堤設置である。頭首工の上流右岸で八田川が流れ込んでいる。製紙会社の排水が混ざっているので庄内川本川の水に比べると一目でわかるほど汚れている。八田川の水を避け、できるだけ本川の水を取水できるように、左岸に沿って川の中に堤防を造り、上流から元杁樋門の取水口まで上流部の水を導いてくるための施設が導流堤である。
 また、オイルフェンスも設置されている。漂流するごみを避けるとともに、工場排水を含む八田川からの水は温度が高いので表層を流れ、本川の水は下層を流れる傾向を利用して、オイルフェンスの下についているスカート部で表層水を排除して下層水を取水するためのものである。

 平成30年(2018)時点では、水分橋でのBODは2.7㎎/ℓ、SSが6㎎/ℓまで低下し、環境基準も満たしている。かつてのすさまじいまでの汚濁に比べれば飛躍的に改善されてはいるが、まだ十分とはいえないであろう。きれいな水だけを選んで取水することを完全に行うのはむずかしく、一度汚した水をきれいにするには多くの費用がかかる。さらに発生源対策を進め、かつての庄内川の姿に少しでも近づきたいものである。




 2004/07/04・2021/04/18改訂