少しでもきれいな水を
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戦後の食糧難の時代を乗り越えた日本は高度成長の時代になってゆく。 戦争に負けた貧しい日本から脱却し、より豊かな生活を目指して人々は必死に働いた。資源が少ない日本では、輸入した資源を安く加工し、製品として世界へ輸出することが生きる道であり、各地に工場が作られフル操業していた。環境よりも原価を下げ競争力を高めることのほうが大切な時代である。拡張を続ける工場の労働力として、中学を卒業した子どもたちが集団就職で都会を目指し「金の卵」と呼ばれた。農村から都市へ多くの人が移住し、膨張する都市人口は下水などの都市基盤が十分に整備されないまま周辺部を宅地化していった。
庄内川の流域もこの時代の流れが押し寄せてきた。工場廃水や家庭排水が未処理のまま流入し、水質が大きく悪化していったのである。かつて庄内川は巾下水道の水源になっていたほどの清流であったのが、上流の陶磁器産業や製紙工場の排水などにより、常に白い悪臭のする水が流れる川へと姿を変えたのである。昭和40年(1965)代には、BOD(生物化学的酸素要求量)が73.3㎎/ℓ、SS(浮遊物質量)が182㎎/ℓにもなった。今の堀川(小塩橋)のBODが4~5㎎/ℓであるのと比較すると、いかにすごい状態になっていたのか解るであろう。まさにドブとしか言いようのない状態である。日本中で環境問題が噴出し、45年(1970)に公害対策基本法、46年に水質汚濁防止法が施行され工場廃水の規制などが始まった。
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以後、少しずつ水質は改善されていったが、頭首工ではよりきれいな水を取水する努力がなされた。54年(1979)の導流堤設置である。頭首工の上流右岸で八田川が流れ込んでいる。製紙会社の排水が混ざっているので庄内川本川の水に比べると一目でわかるほど汚れている。八田川の水を避け、できるだけ本川の水を取水できるように、左岸に沿って川の中に堤防を造り、上流から元杁樋門の取水口まで上流部の水を導いてくるための施設が導流堤である。
また、オイルフェンスも設置されている。漂流するごみを避けるとともに、工場排水を含む八田川からの水は温度が高いので表層を流れ、本川の水は下層を流れる傾向を利用して、オイルフェンスの下についているスカート部で表層水を排除して下層水を取水するためのものである。
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平成30年(2018)時点では、水分橋でのBODは2.7㎎/ℓ、SSが6㎎/ℓまで低下し、環境基準も満たしている。かつてのすさまじいまでの汚濁に比べれば飛躍的に改善されてはいるが、まだ十分とはいえないであろう。きれいな水だけを選んで取水することを完全に行うのはむずかしく、一度汚した水をきれいにするには多くの費用がかかる。さらに発生源対策を進め、かつての庄内川の姿に少しでも近づきたいものである。
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