江戸時代初期に名古屋城のお堀に水を送るために開削されたのが御用水である。水源は龍泉寺の麓を流れる庄内川であった。その後、庄内用水の水も一緒に流されるようになり、さらに取水する元杁樋門の位置が少し下流へ変わった。 明治になり黒川が開削されると、御用水・庄内用水は三階橋の南で黒川から取水するようになった。不要となった守山区内の旧御用水路は、規模を縮小し取水位置も変えて八ヶ村用水として田の潅漑に使われた。 |
御用水路之図 | 取水地点 下流へ変更 | 黒川開削 御用水は八ヶ村用水へ |
取水地点 下流へ変更 |
|||
---|---|---|---|
『御用水路之図』は庄内用水と併用するようになった1792年以降に作成され、白沢川と庄内川の合流点近くで取水している。 一方、天保12年(1841)に作成された『川村絵図』では少し下流に元杁が設けられ、以前の取水地点だったと思われる所には、「辻砂入」と記入されている。「砂入」とは、砂の堆積により耕地に適さなくなった場所のことで、「辻」が付いているのは、御用水は別名「辻村用水」とも呼ばれていたためである。 位置が変わった時期は両絵図が描かれた1792~1841年の間のいずれかの年だが、詳細は不明である。 |
|||
『川村村絵図』 天保12年 |
|||
なお、『守山市史』には『尾張徇行記』に「寛保二年(1742)に新規杁二腹伏せ」の記載があることから、この年ではないかと書いてある。 しかし『尾張徇行記』の記載は、新しい杁を造った記述に続けて「井道を立。矢田川守山と山田の間に伏越水筒長112間伏、それより大幸井筋へ落込、稲生井筋へ用水を通せり。」となっている。 庄内用水は何度も取水位置や送水経路を変えており、庄内用水と御用水が一緒に流れるようになる以前、庄内用水は単独で取水して矢田川を伏せ越して山田村へ流れ、大幸川を利用して旧来からの用水路へ水を送るように改造されたが、そのことの記述である。このため『守山市史』のは誤記と考えられる。 |
黒川開削 御用水は八ヶ村用水へ |
||||||
---|---|---|---|---|---|---|
明治10年(1877)に黒川が開削された。この時、御用水と庄内用水は三階橋の南で黒川から分流するようになり、守山区内の旧御用水路は不要になった。 ◇取水口……白沢川合流点付近へ |
||||||
このため、開削に合わせて旧御用水路を利用して八ヶ村用水の整備が行われた。 『東春日井郡誌』によると、明治9年(1876)に安藤・梅村の両氏が発起人となり、取水口を川村字川脇に設け、また郷合川(不明)の水源も利用したとのことである。 明治22年(1889)に発行された地形図を見ると、白沢川が庄内川に流入する直前の場所あたりから八ヶ村用水が流れ出している。江戸時代に御用水の取水位置が下流に変わる前に元杁があった場所から再び取水をするようになっている。 |
明治22年 1/50000 |
|||||
取水位置を変えた理由の記録は見つからないが、次のことから移設したと推測される。 1.八ヶ村用水は、御用水よりずっと少ない水量しか必要としていない 2.庄内川に面した元杁は、増水時に破壊される可能性が高く維持管理や修復の費用がかさみ、八ヶ村用水の受益者にとり負担が大きい 3.このため、庄内川が増水したときの被害が少なく維持管理しやすい白沢川合流点に取水位置を変更した ◇用水路……大幅に縮小 黒川の開削により、御用水と庄内用水の水は三階橋下流で黒川から分流するので、八ヶ村用水は守山区内の潅漑用水だけ流せば良い。 このため水路幅もそれまでの5間(9.1m)から1間(1.8m)に縮小された。水路延長約30丁(3.3㎞)、潅漑面積は150町(148.8㏊)の用水路となった。潅漑区域は川・牛牧・大森垣外(がいと)・大永寺・守山・金屋坊・幸心・瀬古の8ヶ村であった。 |
||||||
◇現在の姿……少し上流に堰を設けて取水 『守山市史』〔刊:昭和38年(1963)〕に「大都市名古屋の発展と庄内川砂利採集による河床の下降は灌既用水減となるので、新たに上流にえん堤を設け、その完全灌漑を期している。」と書かれている。 砂利の採取により河床が低下して取水しにくくなった。このため元杁樋門より少し上流の庄内川に堰堤を設け、川原に造られた導水路で白沢川近くまで水を引く工事が昭和29年(1954)に完成し、現在の姿になった。
|
八ヶ村用水堰堤 (平成13年撮影) |
導水路のルート(現在) 『スーパーマップル』 |
導水路と元杁樋門 |
|
守山区内の水系 昭和30年頃? 『名古屋市全図』 |
2024/12/26 |
|