時代により変わった
御用水元杁
 江戸時代初期に名古屋城のお堀に水を送るために開削されたのが御用水である。水源は龍泉寺の麓を流れる庄内川であった。その後、庄内用水の水も一緒に流されるようになり、さらに取水する元杁樋門の位置が少し下流へ変わった。
 明治になり黒川が開削されると、御用水・庄内用水は三階橋の南で黒川から取水するようになった。不要となった守山区内の旧御用水路は、規模を縮小し取水位置も変えて八ヶ村用水として田の潅漑に使われた。


    御用水路之図   取水地点 下流へ変更   黒川開削 御用水は八ヶ村用水へ



『御用水路之図』で見る 元杁周辺の様子

絵図の記載
 ◇元杁周辺
 ・白沢川と庄内川の合流点付近に元杁
 ・「杁二ヶ所一所二タ戸前付」の記載
   〔取水口は2か所あり、それぞれ2つのゲートが設けられていた〕
 ・「内杁口無戸」と記載
   〔杁には堤外側(川側)と堤内側(住居などのある側)の両方にゲートを設けることがある。
    ここでは堤内側のゲートは設けられていなかった〕
 ・元杁の少し下流の庄内川に立切
   〔庄内川に堰を設けて水位を上げ、元杁に水が入りやすくしてある〕
 ・元杁の少し上流の庄内川岸に猿尾
   〔猿尾は岸に押し寄せる激流を川の中央へ押し返して、堤防や元杁などを水圧から守る施設。
    「石カゴ」と記載があるので、竹で円筒形に編んだ細長い籠に石を詰めた構造〕

 ◇杁守住居
 ・「杁守庄兵エ居 屋敷山」の記載
   〔元杁を管理する庄兵衛が住んでいた。
    図では1軒屋のように感じるが、明治24年の地形図では、この辺りは集落になっていた。
    杁守などは地域の有力者が選任されることが多い。
    大水の時には村中総出で水防活動をする必要があり、それなりの人物が任命される〕

 ◇川底小丸石
 ・「御用水通川底小丸石」の記載
   〔流水による水路底の洗掘を防ぐ為に石を敷き並べたのだろうか〕

 ◇村の古老の話
 ・「此御用水江通ハ以前白沢ノ谷水道ニテ 此畔村ノ井懸リニモ致シ来レルノ処 寛文年此御用水出来大川ニ杁出来ル時 右白沢ハ堤ニテ堰留メ大川ヘ落スヨウニナリシ 村老ノ諺ナリ」の記載
 〔御用水開削以前は、白沢からの水がここを流れて、沿川の村の灌漑に使っていた。寛文年間(1661~73)に御用水が開削されて庄内川に取水口が出来たときに、白沢は土手を築いて堰きとめ、庄内川へ流れるように変わったと村の老人が話していた〕

《白沢川の流路変更(参考)》
 現在の白沢川は、小幡緑地にある見返ヶ池から西へ流れだし、途中で北西へ向きを変えて庄内川へ注ぐ、延長1㎞の準用河川である。

 現在の流れに変わったのは、御用水開削から105年後の明和5年(1768)である。
 それ以前、白沢の水は今の古川のルートで西へ流れていた。大雨の時には守山丘陵の水が一気に流れ下り、下流の村々は水害に悩まされていたため、明和5年に丘陵の標高30mほどの尾根を横断する新しい水路を掘り、庄内川へ流れ込むようにして現在の姿になった。

 古老が「御用水が出来たときに白沢川が庄内川に流れ込むようになった」と語っているのは年代が合わず、記憶違いではなかろうか。


現  況


5mメッシュデジタル地図で作製 20~40mで色分け




























他の資料の記載
 ◇元杁周辺
 ・御用水杁、長11間(20m)、巾9尺(2.7m)、高5尺(1.5m) ………………『尾張徇行記』
 ・庄内用水杁、長11間(20m)、巾2間(3.6m)、高5尺(1.5m) ……………『尾張徇行記』
 ・庄内川を岩石もて堰留めて(これを定井と名付)杁所へ水を通し入る ……『金城温古録』
 ・杁所の南に、御腰掛と称へて、御立間の御屋敷あり
   …中略… 大切成る杁所なれば、万一の時、御備も、可有所の御構なるべし ……『金城温古録』

 ◇杁守
 ・米1石、川村定井守給、右同断〔寛文3卯年(1663)より被下〕 ………………『地方古義』
 ・1石5斗充 川村 杁守2人  ……『金城温古録』
 ・川村杁守2人、給米3石。定井守1人、給米1石。
  是ハ寛文3卯年ヨリ被下、定井守ハ松河戸村ノ者ツトム、元禄旧記ニアリ……『尾張徇行記』




取水地点 下流へ変更
 『御用水路之図』は庄内用水と併用するようになった1792年以降に作成され、白沢川と庄内川の合流点近くで取水している。

 一方、天保12年(1841)に作成された『川村絵図』では少し下流に元杁が設けられ、以前の取水地点だったと思われる所には、「辻砂入」と記入されている。「砂入」とは、砂の堆積により耕地に適さなくなった場所のことで、「辻」が付いているのは、御用水は別名「辻村用水」とも呼ばれていたためである。
 位置が変わった時期は両絵図が描かれた1792~1841年の間のいずれかの年だが、詳細は不明である。


『川村村絵図』 天保12年

 なお、『守山市史』には『尾張徇行記』に「寛保二年(1742)に新規杁二腹伏せ」の記載があることから、この年ではないかと書いてある。
 しかし『尾張徇行記』の記載は、新しい杁を造った記述に続けて「井道を立。矢田川守山と山田の間に伏越水筒長112間伏、それより大幸井筋へ落込、稲生井筋へ用水を通せり。」となっている。
 庄内用水は何度も取水位置や送水経路を変えており、庄内用水と御用水が一緒に流れるようになる以前、庄内用水は単独で取水して矢田川を伏せ越して山田村へ流れ、大幸川を利用して旧来からの用水路へ水を送るように改造されたが、そのことの記述である。このため『守山市史』のは誤記と考えられる。




黒川開削 御用水は八ヶ村用水へ

 明治10年(1877)に黒川が開削された。この時、御用水と庄内用水は三階橋の南で黒川から分流するようになり、守山区内の旧御用水路は不要になった。

◇取水口……白沢川合流点付近へ
 このため、開削に合わせて旧御用水路を利用して八ヶ村用水の整備が行われた。
 『東春日井郡誌』によると、明治9年(1876)に安藤・梅村の両氏が発起人となり、取水口を川村字川脇に設け、また郷合川(不明)の水源も利用したとのことである。
 明治22年(1889)に発行された地形図を見ると、白沢川が庄内川に流入する直前の場所あたりから八ヶ村用水が流れ出している。江戸時代に御用水の取水位置が下流に変わる前に元杁があった場所から再び取水をするようになっている。


明治22年 1/50000

 取水位置を変えた理由の記録は見つからないが、次のことから移設したと推測される。
 1.八ヶ村用水は、御用水よりずっと少ない水量しか必要としていない
 2.庄内川に面した元杁は、増水時に破壊される可能性が高く維持管理や修復の費用がかさみ、八ヶ村用水の受益者にとり負担が大きい
 3.このため、庄内川が増水したときの被害が少なく維持管理しやすい白沢川合流点に取水位置を変更した

◇用水路……大幅に縮小
 黒川の開削により、御用水と庄内用水の水は三階橋下流で黒川から分流するので、八ヶ村用水は守山区内の潅漑用水だけ流せば良い。
 このため水路幅もそれまでの5間(9.1m)から1間(1.8m)に縮小された。水路延長約30丁(3.3㎞)、潅漑面積は150町(148.8㏊)の用水路となった。潅漑区域は川・牛牧・大森垣外(がいと)・大永寺・守山・金屋坊・幸心・瀬古の8ヶ村であった。

◇現在の姿……少し上流に堰を設けて取水
 『守山市史』〔刊:昭和38年(1963)〕に「大都市名古屋の発展と庄内川砂利採集による河床の下降は灌既用水減となるので、新たに上流にえん堤を設け、その完全灌漑を期している。」と書かれている。
 砂利の採取により河床が低下して取水しにくくなった。このため元杁樋門より少し上流の庄内川に堰堤を設け、川原に造られた導水路で白沢川近くまで水を引く工事が昭和29年(1954)に完成し、現在の姿になった。

 ○八ヶ村用水導水路竣工記念碑
 元杁樋門近くに、導水路ができたことを記念する碑が建っている。
 文面は次のとおりである。
 「八ヶ村用水路は昭和二十五年八月庄内川大出水のため殆んど壊滅に等しい被害を受けた。時に関係者一同善後策研究の結果国費の補助を得て恒久的復旧工事の実施を決意し八ケ村治水利水期成同盟会を結成市の委托(ママ)工事として翌二十六年三月着工した。尓来(じらい)関係当局及び地元民必死の努力により幾多の難関を越え昭和二十九年九月竣工した。この間丹羽兵助会長の絶大なる盡力の結果県直営の巨費を投じ床止堰堤復旧工事の完成を見両者相俟って用水取入の完璧を期することを得地元民多年の宿望と幸福を達成したのである。
   昭和三十五年三月 建之」



八ヶ村用水堰堤 (平成13年撮影


導水路のルート(現在)
 『スーパーマップル』


導水路と元杁樋門

守山区内の水系 昭和30年頃? 『名古屋市全図』





 2024/12/26