三階橋の北東に守西ポンプ所がある。庄内用水(堀川)の上に建つ、小さなポンプ所だ。このポンプ所へ古川が流れ込んでいる。牛牧(小幡緑地付近)あたりから流れ出し、新守山駅の南を通り、ここまできている。
 国道19号より上流は石張りの護岸なども整備されてきれいになっているが、このあたりの古川は切り立った護岸にコンクリートの三面張り、味も素っ気もない川である。誰も見向きもしないような川だが、紆余曲折の歴史を背負った川で、一時期は堀川の支流でもあった川だ。

    元をただせば白沢川   流路変更1……庄内川へ   流路変更2……白沢川と古川へ
    流路変更3……庄内用水へ   流路変更4……堀川へ   流路変更5……ポンプで矢田川へ



元をただせば 白沢川
   この古川のルーツは「白沢川」である。
 今も「白沢川」という別の川がある。小幡緑地から北西に流れて庄内川に注ぐ、延長はわずかに1㎞、流域面積3.8㎢の小さな川だが、れっきとした準用河川で「白沢町」や「白沢小学校」の名前の元にもなっている。

 この白沢川は、かつて瀬古へと流れていた。
 小幡・大森・吉根・牛牧あたりの水を集めて西へ流れて矢田川に注ぎ、大雨の時には下流部でしばしば氾濫を繰り返す暴れ川であった。



流入先変更1…… 矢田川から庄内川へ
   元禄16年(1703)に水野奉行所に、瀨古・守山・山田・幸心村の庄屋などが連名で出した嘆願書には次のように窮状が書かれている。
 「矢田川筋水出の節、山々より砂大分押出し、年々川高にまかり成り、右の悪水(白沢川)一円に落ち兼ね、今程は上少し水にても内の溜り多く、山田村・守山村・幸心村・瀬古村以上四ケ村の田畑度々水かぶり、勿論百姓の居屋敷並に竈(かま)迄も水吹き出し、殊に往還通りに折々通路も留り申体に御座候。右脇々の小道筋へ人馬の通ひ曾て罷り来り不申候。別して近年打ち続き水損仕、百姓殊の外困窮に及び迷惑至極仕候。」
 流砂の堆積で矢田川の川底が年々高くなり、白沢川が排水できずに氾濫して山田(矢田川北に飛地があった)・守山・幸心・瀨古村ではたびたび田畑が冠水し、家まで水が入り、下街道の通行も止まってしまうという状態になっていた。

 この窮状を打開するために
 「瀬古村地の内より、成願寺地の内まで堀割り、味鋺川筋え落し申様に仕度候。」
 瀨古村(現:守山区)から成願寺村(現:北区)へ水路を掘って庄内川へ流れ込むように改良したいと奉行所に願い出ている。続いて、この工事について成願寺村は了解済みで費用も4か村で負担すると書き添えられており、この願いは聞き入れられ成願寺村で庄内川に流入するようになった。 



流入先変更2……上流部のショートカット(流域変更)……白沢川と古川に分離
   明和4年(1767)にも大水害がおきた。矢田川の流れが長母寺(現:東区矢田3)の南から北へ変えられたほどの災害である。
 うちつづく災害に、翌5年、瀬古村(現:守山区)などからの要望で白沢川筋の大幅な変更がなされた。源流近くの川村で川を塞き止め、新たに開削した水路で近くの庄内川に流すようになったのである。今の白沢川の誕生だ。
 水源を失った旧白沢川の中流部は普段は水がなく、下流部は沿川からの排水を集めて流れる川になり「五ケ村悪水」(時代や図によっては「八ケ村悪水」「山下悪水」「古川」)と呼ばれるようになった。

5mメッシュデジタル地図で作製(20~40mで色分け)
現在の地形だが、旧白沢川の谷筋が残っている




流入先変更3……庄内用水(三郷悪水)へ
    寛政4年(1792)になると庄内用水の川筋が大幅に変えられた。竜泉寺下で取水し、御用水を拡幅して御用水と庄内用水を一緒に流すようになったのである。
 現在の三階橋北で御用水と庄内用水を分流し、御用水は矢田川を伏せ越して名古屋城へ、庄内用水は川中三郷(現:北区福徳・中切・成願寺)に新しく造られた水路(当時の名称は庄内用水、後に三郷水路)をとおり、福徳から稲生(現:西区)へ矢田川を伏せ越して従来の庄内用水に接続した。また、稲生から名古屋城北西で大幸川(現:黒川)に流入する水路(「三郷悪水」「六段地江」)も造られた。 
 
 この時に、五ケ村悪水(古川)は御用水と庄内用水を分流した少し下流で庄内用水に流し込むようになった。これは、水路の高低差の問題とともに、巾下水道の水源ともなっている御用水に排水が混ざらないようにするためではないかと考えられる。
 これにより、御用水路を流れてきた水とともに五ケ村悪水の水は、三郷悪水を経て名古屋城の北西で大幸川にも流入するようにな ったのである。

五ヶ村悪水と庄内用水の合流か所
『御用水路之図』



流入先変更4……堀川へ
   明治10年(1877)に黒川が開削され、それに合わせて他の水路も水系が変えられた。
 ・御用水の取水位置
   龍泉寺下の庄内川→三階橋南の黒川
 ・庄内用水
   御用水と一緒に流れ、三階橋北で分流
    →三階橋南で黒川から分流
 この結果守山区内の御用水路(庄内用水兼用)は不要になり、再編されて八ヶ村用水に使われた。庄内用水に流れ込んでいた古川は、堀川へ流入するようになった。

  その後、大正末から昭和にかけて進められた瀨古の耕地整理事業で、古川の流れは直線的な姿に変わっていった。

 古川は昭和34年(1959)に、旧河川法の準用河川に指定されている。

『1/50000 地形図』 明治22年測図


『1/50000 地形図』 昭和7年



流入境変更5……ポンプで矢田川へ
   瀬古はかつて輪中があったような低湿地である。地域の排水強化のため昭和42年(1967)に守西ポンプ所が造られ、古川の流れは堀川から切り離されてポンプで矢田川に排水されるようになった。
 なお、昭和44年に新河川法の一級河川に指定されたが、翌45年に廃止された。
  
   黒川の環境維持にも活躍
 平成14年(2002)から北区内の黒川の環境を維持するため、庄内川から取水できない時期に古川の水をポンプで揚水して堀川(庄内用水)に流すようになっている。ポンプ所構内に見える「古川揚水送水管」と書かれたパイプが堀川へ水を送る管である。
 



 2021/03/15