大正時代、大量輸送の主力は船であった。未開発の名古屋南部を発展させるため運河網計画がたてられ、そのなかに山崎川運河が含まれていた。 |
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大正13年(1924)に市の南部を工業地帯化する運河網計画が都市計画決定された。山崎川・大江川・中川・荒子川に堀川を加えた5大運河と、それらを連絡する運河を開削して運河網を造ることになった。 山崎川は東海道線より下流を幅35間(63.7m)に拡幅し、堀川と大江川への連絡運河も開削する計画である。 そのようななか、河川管理者の愛知県は昭和12年(1937)に山崎川の左右田橋(そうだばし、瑞穂グランド東)から下流の改修事業を始め、下流部は拡幅整備された。しかし完了しないまま終戦を迎え、山崎川・荒子川の運河網計画は昭和51年(1976)に廃止されている。 |
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運河網計画概念図 |
『大名古屋市全図(都市計画道路網及運河網)』 大正13年 |
2023/10/19 |
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