『名古屋今昔写真集』
名古屋港が完成すると築港にともなって造られた一号地と五号地の間を結ぶ渡船が運航されるようになった。その後、利用者が増えると渡船ではさばききれなくなり、港新橋が架けられた。この頃は多くの艀が堀川を行き来していたので、橋には開閉部が設けられていた。
一・五号地を結ぶ渡船
跳上橋の港新橋
一・五号地を結ぶ渡船
明治43年(1910)に完成した五号地と一号地を結ぶ東西築地連絡渡船(堀川口渡船)が、大正4年(1915)7月から、運航されるようになった。
愛知県が運営し、当初は定員24人の小碓(おうす)号が、13年(1924)から24.3㌧の作良(さくら)丸が両岸を結び、乗船賃は1人1銭であった。
その後、名古屋港の発展とともに渡船の利用者が増え、朝夕には一時に殺到して非常に混雑するようになった。また、自動車が普及し始めたが渡船には乗せられないので、上流へ大きく迂回しなければならない不便があった。
『名古屋の100年』
対岸に可動橋が写っているので、
昭和2年以降の撮影
跳上橋の港新橋
このため昭和7年(1932)12月に(旧)港新橋が架けられ、18年間続いた渡船は廃止された。
橋は鉄筋コンクリートの橋脚で鉄製トラス桁、長さが148間(269.4m)、幅が3間(5.5m)であった。
延長が長いので10径間になっており、船の航行のため東端の1スパンが開閉する構造だった。開閉は電気モータで行い40秒で開閉できた。可動部を製造したのは日本車輌製造(株)である。建設は愛知県が行い、管理は名古屋市が担当した。太平洋戦争で一部損壊したので昭和25年(1950)度に修繕と補強が行なわれている。
昭和39年(1964)には新しい橋が90m上流にできて旧橋は取り壊され、今は橋台だけが残されている。
『名古屋の100年』
『大正昭和名古屋市史』
現況
2023/10/17