かつては国体も!
中川運河とボート競技
 一直線に北へ延びる中川運河は水位が一定で流れがなく、ボート競技にうってつけの場所である。運河が完成した記念イベントで漕艇大会が開かれたのを始め、昭和25年の愛知国体では漕艇競技会場になった。舟運が増えるとともに行われなくなっていたが、昭和58年に復活し、現在はいろは橋のたもとに漕艇センターも設けられている。


    名古屋のボート競技   中川運河で漕艇復活   名古屋港漕艇センター開設



名古屋のボート競技
◇明治時代は堀川で
 名古屋で最初にボート部ができたのは、納屋橋下流にあった愛知医学校で、明治17年(1884)のことである。
 19年(1886)11月の『扶桑新報』には「熱田中川新田(ママ)前で短艇(ボート)競漕会」が行われた記事が掲載されている。

 明治26年(1893)に名古屋商業学校(現:市立名古屋商業高校、略称CA)、35年(1902)に愛知県第一中学校(現:旭丘高校)の水上運動会(漕艇大会)が行われ、明倫中学校(現:明和高校)も37年(1904)にボート部ができている。
 これらの対抗戦が「熱田沖」「熱田港犬飼造船所前」で何度も開かれ、堀川下流部では若者たちが息を合わせて力一杯オールを引く姿が見られた。
 43年(1910)には第八高等学校(現:名古屋大学)にもボート部ができ、大正(1912~)のはじめになると大瀬子橋下流の右岸側に上流から明倫・八高・一中・CAの艇庫が並んでいた。


CAの校内ボートレース大会 昭和8年

◇中川運河完成で漕艇大会
 昭和5年(1930)の中川運河本線・北支線通水の時には花火が打ち上げられ、ペーロン船競争や一中・明倫・名古屋商業学校などによる漕艇大会が行われて盛大に祝っている。
 運河全線が開通した昭和7年(1932)には第一回中川運河祭が行われた。昼には盛大な漕艇大会、夜になると小栗橋のたもとで仕掛け花火、さらに鵜飼船が遊覧船を従えて中川口閘門に向かっていった。その他にも、折につけ納涼大会や漕艇大会が運河で行われていた。


昔の中川運河まつり
◇昭和25年愛知国体 中川運河で漕艇競技
 戦後の昭和25年(1950)には市の人口が再び100万人を超え、10月28日から31日まで愛知国体が開かれた。
 中川運河で漕艇競技が行われ、つかの間のハレの舞台になった。

 しかし舟運の活発化などにより堀川や中川運河での漕艇は行われなくなり、拠点は庄内川へ移り、中川運河では中川口閘門のすぐ上流西側に旭丘高校の艇庫があるだけとなった。




中川運河で漕艇復活
 昭和50年(1975)代になると舟運は大きく減少して中川運河はかつての賑わいを失い、埋めて道路にした方が良い、地下鉄の敷地にしてはどうかなど運河不要論を唱える人も出てきた。

 そのようななか昭和58年(1983)10月10日に名古屋市主催、名古屋市漕艇協会(現:名古屋市ボート協会)主管で「なごやレガッタ」が初めて開催された。市内の大学漕艇部や実業団、高校は唯一漕艇部があった旭丘高校と市外から猿投農林高校が参加し、一般公募の親子ボート競漕も行われ、愛知国体以来33年ぶりに運河で漕艇競技が復活したのである。


「なごやレガッタ」昭和59年頃
 これを契機に輸送路としての運河から、憩いの場所としての運河へとの機運が芽生え始めてきた。中川運河は幅が広いので4レーン設置でき、東海橋までなら1㎞、最大5㎞の直線で流れや波がない静水コースが確保できる。ボート競技にはうってつけの場所である。




名古屋港漕艇センター開設
 平成5年(1993)4月に名古屋港管理組合により「地域の人々に水に親しむ機会を提供することにより、漕艇競技の普及と競技力の向上をはかることを目的」として漕艇センターが設立された。

 漕艇で使用するボートの格納と貸し出し、レガッタや市民ボート教室を開催している。普段の練習の他、毎年3月に中川運河ロングレース、8月に市民スポーツ祭ボート大会、10月になごやレガッタを開催して賑わっている。


なごやレガッタ 平成10年
漕艇センター前




 2023/11/21