今 も 残 る
筏係留桟橋
 港新橋の下流で右岸から突堤のように突き出しているのは、かつての筏係留桟橋の防護施設である。


    増える木材 足りない貯木場   筏係留桟橋と八号地貯木場



増える木材 足りない貯木場
 名古屋は藩政時代から木曽材を中心とする木材の集散地であった。
 明治末の名古屋港完成により北海道、さらには樺太・アメリカなど遠隔地からも原木が運び込まれるようになり、大正(1912~)になると取扱量が急激に増えていった。
 明治41年(1908)には11.5万トンであったが、昭和元年(1926)には110.9万トン、実に9.6倍に増え、大量の木材が名古屋港に運び込まれるようになった。


『名古屋港水陸連絡状況』より作成

 入荷した木材を、売却や加工するまで貯蔵する施設がたりないため、堀川などの河口にはたくさんの筏が水面に係留されて船の通航にも支障が出る状態になってきた。
 また、大正元年(1912)と10年(1921)の台風で大量の木材が流出し大きな被害を引き起こしている。

 江戸時代から続く白鳥貯木場があるが、ここは木曽など皇室財産の山から切り出された木材を貯蔵・売却する御料局〔明治41年(1908)から帝室林野管理局、大正13年(1924)から帝室林野局〕の貯木場である。

堀川中流部の様子
『愛知県写真帖』 明治43年
 民間の木材は白鳥貯木場を利用できないので、大正初期に造られた五号地の名港貯木場などを利用したが収容能力が足りなかった。
 このため堀川岸に係留したり、熱田海岸などで陸揚げし岸にうずたかく積み上げて保管したが、通行に危険が感じられる状態であった。

 このため明治末から貯木場が整備され始めた。それでも、急増する木材に対応しきれなかった。大正3年(1914)6月に堀川筏整理組合がつくられたものの、堀川河口などは木材で埋め尽くされて船の航路も確保できない状態になっていた。
 大正11年(1922)には貯木場期成同盟会が結成され、翌12年(1923)には県会で知事に宛てた貯木場設置の意見書が議決されている。




筏係留桟橋と八号地貯木場
 これをうけ、県は応急措置として大正13年(1924)度に現在の八号地に仮設の貯木場を設置した。
 14年(1925)には堀川口(現:港区千年沿岸)に延長750間(1.4㎞)の筏係留桟橋を設けて木材整理場に指定し、筏係留の場所を集約することで筏と舟運の輻輳を減少するように努めている。なお、桟橋の筏を波や船の侵入から守る防護施設(突堤)がこの時に造られ、港新橋下流に残る突堤はその一部である。


『港区全図』 昭和30年

{名古屋港全図」
昭和11年に加筆
 なお、昭和8年(1933)に大瀬子橋から名古屋港船溜までの1,600間(2.9㎞)を4か年計画で浚渫する事業が始まったが、澪筋(航路部分)は干潮の時でも水深6尺〜9尺(1.8〜2.7m)に、筏係留区域は水深が必要ないので2尺の深さに(60㎝)に掘削している。
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 2022/10/17