260年前の矢田川跡
霊光院東の擁壁

 霊光院の東には3mほどの高い擁壁が続いているところがある。丘陵地なら擁壁は珍しくないが、この擁壁の向こうには細長い平地と矢田川があるばかりだ。
 擁壁の上の平地は、かつての矢田川が流れていた場所なのだ。この川は、川底の方が周辺の土地より高い天井川だった。江戸時代半ばの大雨で矢田川の流れが変わりかつての川跡が残されたが、周辺より高い場所だったので擁壁を造り崩壊を防いだのである。





   上飯田一帯は平坦な土地が続いている。だが霊光院のすぐ東から急に高くなり、3mもの擁壁の上に家が建ち並び道路が階段になっている所もある。この高台は天井川だった矢田川がかつて流れていた川跡だ。

 今の矢田川は長母寺(東区矢田三)の北を流れているが、昔は南側を通ってこの霊光院東の場所へと流れ下っていた。長母寺は平安時代の終わりに守山台地が南西に延びている先端に建てられた寺であった。
 大異変が起きたのは、明和4年(1767)7月のことである。10日から降り続いた雨で12日になるとついに猿投山の斜面が崩壊し土石流が瀨戸の雲興寺(今とは位置が異なる)を押し流した。矢田川は上流に陶土地帯があり、土砂の堆積で川底が周辺の土地よりも高い天井川になっていた。増水した矢田川は降り続く雨で軟弱になっていた堤防では耐えきれず、ついに猪子石で決壊し、濁流が城北・城西に流れ込んだ。巾下では水深が1.5mにもなり、数日間は舟で行き来するほどの惨状となった。
 この時に矢田川の水が長母寺北側の鞍部(少し低くなった所)を乗り越えて流れるようになり、流路が北へと移動したのである。

 以前矢田川が流れていた場所は砂地のため開墾して田畑にするのに向かず、永年放置されたままであった。大正9年(1920)の地形図でも大幸村から上飯田村にかけて広く空白になっている。大正になりこの地域の耕地整理が行われると大きな工場が進出し、旧矢田川跡に住宅も建てられるようになって、永年不毛の土地であったのが今のような姿へと変わっていった。

 この場所は、260年も前に矢田川が流れていた痕跡が、変遷の激しい名古屋の街で今も残されている貴重な場所である。


1/25000 大正9年


擁壁の上が、旧矢田川の川底


下から旧川底方向


階段道路もある





 2025/12/02