海水浴場のような賑わい
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木造の伏越時代は枡形
矢田川伏越(川底に造られた水路トンネル)が木造だった時代は、南の出口を囲むように桝形が造られていた。矢田川の堤防にコの字型の土手が腹付けされており、上から見ると枡のように見えることから枡形と呼ばれた。
木造の伏越は腐朽しやすく強度が弱い。もし破損すれば矢田川の川底に穴が空いたことになり、川の水は堤内地(人家のある方)へなだれ込んで大水害を起こす。このため、桝形という第二の堤防を造り、万一の時にはその中に土嚢を積み入れるなどして洪水を防ぐ備えであった。
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「矢田川伏越付近実測平面図」
明治末頃
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天然プール 誕生
明治44年(1911)にそれまで木造だった伏越が人造石で改築された。
木造よりはるかに強度がある人造石なので桝形は造らず、伏越の出口には分水のための池が造られた。池から黒川や用水へ流れ出す所には水量を調整する樋門(ゲート)が設けられていた。 |
『1万分の1 地形図』 昭和31年 |
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子ども天国 天然プール
この池は子どもたちの絶好の水泳場となり「天然プール」と呼ばれた。
昭和50年(1975)代に当時80才位の人から聞いた話では、泳ぎの達者な子は流れが速く真っ暗な伏越の中を守山区側まで泳いで行ったという。それが出来た子は仲間から英雄扱いだったとのことだ。また、竹箒を持って伏越に行き、天井からぶら下がって寝ている蝙蝠を箒で掃いて、驚いて飛び出す様子を見て楽しんだという。
人出を当て込んで、今の海の家のようなものもでき、天然プールは非常に賑わっていた。
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戦前の天然プール(南から北方向)
正面に伏越の出口が写っている
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(北東から南西方向)
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亡くなった子どもを見守る お地蔵さん
一方では水の事故も起きた。
このあたりの樋門の管理を、昭和20年(1945)代に担当していた方から聞いた話では、子どもたちの冒険にプールから川や用水へ流す水量を調整するゲートの下をくぐって反対側へ出るという遊びがあった。しかしくぐり損なうと、ゲートと床の隙間に水圧で体が張り付いて浮き上がれなくなってしまう。大人の力でも剥がせず、ゲートを閉めて水圧を消してから引き上げるが、その時にはもう息がなかった。しばらくすると一緒に来ていた友達がその子の親を連れて駆けつけるが、子に取りすがって泣き叫んでいるのは見ていられなかったとの事である。
黒川樋門の南東にお地蔵様が安置されているが、これはプールで亡くなった子どもの菩提を弔うために建立された。以前、地元の人に聞いたところ、今も8月の地蔵盆の時には供養を営なんでいるとのことであった。 |
右がお地蔵さん、左は馬頭観音 |