名古屋台地の北は 低湿地帯
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なぜ、この地域には名水の井戸や湧水がたくさんあったのだろうか。
名古屋台地への浸透水
名古屋台地は北や西側の低地から約10mの高台になっている。
今では自動車が通る道が付けられ、家が建ち並び、それらの工事の中で傾斜もゆるくなったが、国道41号の清水口への坂などを注意してみれば相当の高度差があることが理解できる。名水と呼ばれた水はどれも名古屋台地の崖下や途中に湧いていたものだ。
富士山の雪解け水は三島の柿田川湧水や、山梨県の忍野八海の湧き水となって再び地上に顔を出し、冷涼で清冽な水として知られている。名古屋の名水は名古屋台地に滲み込んだ雨水が、地中に貯えられ、ろ過され、地中のミネラルを溶かし込み、崖の途中や下で湧き出していたものだ。 |
現在の地形(3~15mで色分け)
(5mメッシュデジタル地図で作製) |
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矢田川の浸透水
また、昔の矢田川はまわりの土地より川底が相当高い天井川であった。川水は地下にしみ込み周辺の地下水位を押し上げ、沿川には田から水が湧く「川田」と呼ばれる土地もあった。
台地の北一帯は低湿地で、いたるところで水が湧いていたのである。
湧水で沼も
今の清水二丁目から大杉一丁目にかけて、江戸時代初期には大きな沼があり、蓮がたくさん咲いていた。夏や秋になると遊船が浮かべられ、花火もあげられたという。寛文(1661~73)の頃埋めて蓮池新田になり、稲置街道沿いに家が建ち「池町」と呼ばれた。この池の水源は崖からの豊富な湧水である。100年後の天明年間(1781~89)の地図を見ると、その名残の沼が描かれている。 |
『天明年間名古屋市中支配分図』1781~89 |
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御堀の水も 初期は湧水
名古屋城もそうだ。城は台地の北端に築かれた。しかも一部は沼地にせり出して造られている。加藤清正が、弱い地盤を補強するため柴などをたくさん積み入れ、子どもたちをそこで遊ばせて踏み固められてから石垣を築いたとの伝説があるような土地だ。
この地が選ばれたのは、一帯に沼地が広がり自然の要害になっているからだ。沼は台地からの湧水が溜まってできていたものである。このあたりのお堀は水堀だが、築城当初は流れ込む川は無かった。自然の湧水で十分満たされていたのである。
寛文3年(1663)になり、幅下方面の水道建設も兼ねて、庄内川から水を引く御用水が造られ、お堀に川の水が入るようになったのである。
名古屋遷府から半世紀がたち、台地の上に名古屋の市街が発展した。建ち並ぶ家により地中にしみ込む雨水が減少し、併せて市街の各所にある井戸から汲み上げる水が増え、湧水量が減ったから御用水が造られたのである。前記の蓮池の新田開発も同時期であるが、これも湧水の減少により水位が下がり開発しやすい条件になっていたと考えられる。また、亀尾清水なども初期は自然の清水であったのが、水量の減少により井戸が掘られたのであろう。
いたるところで湧いていた水だが、稲置街道や下街道、片山神社の近くなど人の目に触れやすい所の湧水には名が付けられ、名水として口づてに伝わり後世にまで名を残したのである。 |