明治天皇が通った
御 幸 橋

 八田川に御幸橋が架かっている。この橋は明治13年に天皇が通ったことからこの名が付けられた。





 偉い人が通った道は、御幸通や御成道などと呼ばれる。この御幸橋は明治天皇が通った橋で、道路は御幸道と呼ばれていた。

◇明治天皇の巡幸
 日本では建久3年(1192)に鎌倉幕府が開かれて以降670年余の長期間、武士が政権を握り支配してきた。
 慶応3年(1867)に徳川慶喜が大政奉還を行い政権は天皇の手に戻ったが、基盤はまだ脆弱であり多くの庶民にはまだなじみのない存在であった。このため天皇は何度も全国各地を巡幸して民情を視察すると共にその存在をアピールしている。長期にわたり行われた次の巡幸は「六大巡幸」と呼ばれている。

  ① 明治 5年(1872)5月23日 ~  7月12日  近畿・中国・九州
  ②  〃 9年(1876)6月 2日  ~  7月21日  東北・北海道
  ③  〃 11年(1878)8月30日 ~ 11月 9日  北陸・東海道
  ④  〃 13年(1880)6月16日 ~  7月23日  甲州・東山道
  ⑤  〃 14年(1881)7月30日 ~ 10月11日  山形・秋田・北海道
  ⑥  〃 18年(1885)7月26日 ~  8月12日  山口・広島・岡山

◇明治13年の巡幸
 このうち明治13年(1880)の巡幸は皇居から八王子・甲府・上諏訪・松本・木曽福島・多治見・名古屋・桑名・京都を馬車で巡幸し、帰途は神戸から船であった。

 大規模な行列で、最初に先発隊が沿道を検分しながら進み、少し遅れて本隊が警官と近衛兵を先頭に天皇の乗る馬車が通り、宮内卿・地方長官・大臣・参議などが続くというものであった。この時の随行者は、伏見の宮を始め、太政大臣三條実美、三人随行した参議のなかに伊藤博文、内務卿の松方正義、陸軍中将の三浦梧楼など、そうそうたるメンバーがいる。

◇地元の準備
 巡幸を迎える地元は大変である。休憩や宿泊する場所の選定や使用する物品、おもてなしの内容や手順など、準備に大わらわとなる。

 併せて道路の整備も必要だ。舗装されていない時代なのであちこちに穴ぼこや泥濘もある。馬車が通行出来るように改修するが、勝川村から庄内川の間の下街道は低湿地帯なので、新たに八田川に出る道路を新設して、新道から八田川の右岸堤を通り県道稲置街道(犬山街道)の水分橋に出て名古屋へ向かうルートにしている。この時に新設された道路が「御幸道」で八田川に架けられた橋が「御幸橋」である。

 『東春日井郡誌』から、その準備を見てみよう。
 「是に於て下街道中の路面は沿道村民挙つて搗棒もて搗き固め、亦險路及坂路其他必要に應じて、路面に土砂を或は添へ或は刪り、以て土木工事を起して緊急之を施したり、



明治25年 1/50000
道路沿いの矢印は、明治天皇の通行経路

 此時に方り勝川村を去り南の方、庄内川堤塘に至るの間道路低きを以て、別に一新路を勝川村に敷設し、西折して庄内川の堤防に通す、之を御幸道と謂ひ、八田川に架橋したるを御幸橋と稱し、而して稻置街道に合し、以て清水町に逹せしむ」
 「明治十三年京都へ行幸の節、中山道より六月三十日萩野村大字辻を經て、名古屋東本願寺別院に御駐輦遊ばさる。
 味鋺村内御通輦の御豫定なりとの報あるや、時しも田植の多忙期なりしも、村民欣喜雀躍、急遽勝川との境なる矢田川(八田川の間違い)に橋梁を架し、行幸の榮を永く紀念せんが爲め御幸橋と名づけ、御通路は各分擔してその修理に從事せり。或は土を盛りて道幅を擴め、千本搗にて地を固むるもの、或は手桶にて水を運び水分橋を洗ふもの、折抦の五月雨中に家業も忘れて、一向に御臨幸を待ち奉れり。」

◇当日の通行
 このように準備が整えられた道を、天皇の一行が通っていった。

 「行幸の前日となれば御幸橋畔に大札を掲げ、人口八百五十三人、町歩二百七町三段八畝歩と記されたり。是村勢を叡覧に入れ奉らんとてなり。鹵簿を拝せんとて四方より集り來る群衆は御通路の両側を埋めんばかりにて、質朴素野なるもの下駄を額前に土下坐伏し居たりしに、前驅の役人、下駄を収めよといふ遑なかりしか、持てる槍にて合圖したりきとぞ。
 かくて午後三時頃鳳輦粛々村民奉迎送の裡に東別院に向はせ給ふ。」

 天皇の通行にあたって新設された道路なので、万が一にも通行不能にならないようしっかりと高く土盛をして整備された。今の地形図を見ても八田川まで御幸道は周辺より道路が高くなっている。


現在の地形『5mメッシュデジタル地図』
(9~14mで色分け)
現在も御幸道は周りより高い





 2024/11/23