犬山から名古屋への舟運
黒川開削と舟運
 

 黒川は名古屋が近代的な産業都市へ変身するために、犬山と名古屋を結ぶ舟を通航させるために開削された川である。大正時代までは多くの舟が行き来し、名古屋の産業と人の暮らしを支えてきた。

  黒川開削   犬山と名古屋を結ぶ舟運   天然氷 黒川を行く

北方との輸送路 黒川の開削

黒川は、犬山と名古屋を結ぶ舟運路を開くことで、名古屋を城下町から近代産業都市へと変身させ都市再生をはかるため造られた。

○大量輸送には船……海運の整備が進む
 明治になり列強諸国に伍して日本が存続してゆくには、殖産興業が必要であり、国は急速な工業化をはかった。工業振興には資材や商品の大量輸送が必要であるが、鉄道やトラックが普及するまで、それが可能なのは船しかなく、水運業の確立と港湾の整備が一番の課題であった。

 明治3年(1870)頃には熱田と四日市を結ぶ汽船による定期航路が始まり、5年(1872)には堀川から四日市への航路がこの地方の事業家により開設されている。8年(1875)になると、三菱商会により開港地横浜と四日市を結ぶ定期航路が始まり、10年(1877)に西南戦争が勃発すると、軍は名古屋鎮台の兵を輸送するため、同商会に四日市と熱田の定期航路運行を命じた。戦争終結後の運航は危ぶまれたが、愛知・三重、両県などの補助金により引き続き継続することになった。これにより、開港地横浜から四日市を経由して熱田を結ぶ動脈となる定期航路が確保された。あわせて必要なのは、内陸部へと広がる航路である。

○名古屋は北方への輸送路が貧弱
 このように海運が整備されるなか、名古屋は北方への輸送路が貧弱であった。名古屋へ舟が入ってこられるのは名古屋と熱田を結ぶ堀川一本しかなかった。尾北や美濃地方の物資は木曽川を下って伊勢湾を横切り熱田に来て、堀川をさかのぼって運ぶルートしかなかったのである。
 このため、名古屋と犬山を舟で結ぶルートの整備が計画された。
 犬山で木曽川から取水している木津用水、その支流の新木津用水、それが流れ込む八田川を利用して庄内川に出て、そこから新しい川を掘り堀川へ繋ぐという構想である。

○明治10年 黒川を開削
 最初に行われたのは庄内川と堀川を繋ぐ新川の開削である。明治9年(1876)11月に「庄内川分水工事」という名称で工事が始まり、翌10年10月(資料によっては9月)に完成した。

 現在の庄内川水分橋(守山区)の所に元杁樋門を設けて取水し、南西へ新しい水路を掘り進めた。矢田川の下を伏越(水路トンネル)でくぐって南側へ出て、さらに南西へと水路を造り、現在の猿投橋(北区)のところで江戸時代に堀川へ接続された大幸川へ接続した。そこから南は大幸川を改修して利用している。
 この事業のなかで、城の堀へ水を送っていた御用水と、名古屋の西・南部の田へ水を供給している庄内用水のルートも付け替えられている。

 この新川は、事業を担当した愛知県技師 黒川治愿(はるよし)の名から「黒川」と呼ばれるようになった。
 
下図 明治22年 1/50000地形図
 
   
○明治17年 新木津用水の拡幅など完了
 黒川は順調に工事が進められたが、新木津用水の拡幅は難航した。上流と下流の農民たちの利害対立があり、疲弊した当時の農民たちは受益者負担金が払えないなどの問題があったからである。
 さまざまな課題を乗り越えて、明治17年(1884)になり全事業が完成した。

黒川に「新開鑿通船路」と書かれている
『名古屋明細図』 明治11年
 
       

   名古屋と犬山を結ぶ舟運 始まる


○愛船鰍ェ舟運開始……7日が4時間に
 19年(1886)2月6日には犬山と名古屋を結ぶ舟を運行する「愛船株式会社」が設立された。本社は二重堀村(現:小牧市)に置かれ、農業用水の取水に支障のない毎年9月21日から6月10日まで運航した。

 9月29日、開業式が犬山の木津用水元杁(取水口)前で行われた。来賓一同を乗せた舟は、木津用水、新木津用水を下り庄内川へ。ここを横断して庄内用水の元杁から庄内用水(黒川)へ入り、一番の難所といわれる矢田川の伏越(水路トンネル)を経て辻町に出る。さらに南西に下りお城の北から西を経て名古屋都心の納屋橋に到着し、堀川西岸にある料亭「得月楼」で祝宴を張ったと記録されている。

 これにより、美濃や木曽の物資は、木曽川を下り桑名から熱田を通って運ばれていたのが犬山から直線コースで運搬できるようになり、時間と経費の大幅な削減が可能になったのである。当時の県知事勝間田稔は祝辞のなかで「これまで7日余りかかっていたのが、わずか4時間で到着できるようになった」と述べている。

 
愛船鰍ノよる輸送経路と船着場
下図「尾張国全図」明治12年
     
○どのようにして輸送?

輸送に使われたのはべか舟と呼ばれた底の浅い舟で、船頭が竿で船を操り進めていた。犬山から名古屋へは流れとともに下るので比較的楽であったが、帰りは数隻の舟をつないで一人の船頭が船を操り、他の者は先頭の舟に結んだロープを岸から引いて行ったそうである。

舟賃は乗客1人7銭、米などは1俵が3銭5厘だった。この頃の活版植字工の日当が上級15銭、下級10銭であったので、乗客の場合日当の半額程度の運賃である。

行き来する舟のために航路の所々に船着場が設けられ、船頭さんの休憩する茶屋などがあり、荷物の積み下ろしが行われた。
 北清水橋(北区)のたもとにある親水広場は、かつての船溜(船着場)である。すぐ上流の黒川橋は当時の主要街道である「稲置街道」がとおり、ここは舟運と陸運の交点として非常に便利な場所であった。小牧市の味岡駅近くに、新木津用水に面して建つ割烹「清流亭」(現在:廃業)は、船頭さんのための茶屋が始まりだそうである。

 
 
黒川の船溜 昭和58年頃
 

北清水親水広場
(船溜を整備したもの)
  

○さまざまな物を輸送
 人を乗船させたほか貨物もたくさん運んでいた。
 『木津用水史』には明治23年9月から翌年6月までの輸送量が次のように記録されている。
 ・乗客 5,000人   ・丸石 30万個  ・薪炭 5,750俵
 ・米、麦、肥料 25,000俵 ・材木(尺〆) 25,000本
 ・氷 60万貫(2,250t)
 丸石は柱や束の基礎や石垣に使う建築資材である。材木の尺〆とは、1尺(30p)角で長さ2間(3.6m)の材木に換算した値だ。住宅で良く使う10p程度の太さなら、9倍の22万5千本という膨大な量になる。
 
     
八田川を行く 石船
高山橋欄干の絵

天然氷 黒川を行く
      運ばれた荷物で珍しいのは天然氷である。黒川岸に住む古老の思い出のなかで一番残っているのが、子どもの頃に氷を積んだ舟が通ると、橋の上から「氷を投げて」といってせがんだ事だという。清水の船着場で、氷の陸揚げを行っていた事を覚えている人もいる。

犬山市に残る明治24年の記録では「数年前から製氷事業が始まり、前年12月から2月にかけて、500余dが製造でき、代価は1,000余円。多くは名古屋へ出荷」とある。今、氷屋さんで買う長方形の氷は1本が1貫目(約3.75s)なので、500dは13万本以上になる。実に大量の氷が犬山で製造され舟で運ばれてきたのである。製氷は、吹きさらしで気温が低い木曽川の河川敷で行われていた。犬山橋より上流の木曽川は川底が岩礁であるが、この岩の窪みに渓流の水を竹の樋で引いたり、木曽川の水が入りこんでいる岩のところでは板で波除を作ったりして凍らせた。氷の厚さが2寸(約6p)以上になると、1尺6寸(約48p)角に切って、貯蔵業者に販売した。貯蔵業者は氷室(ひむろ)と呼ぶ施設でこれを保存し、暑くなるころ名古屋へ向けて出荷したのである。以前は、モンキーパークの東に「氷室」という地名もあった。名古屋では明治21年1月に「愛知製氷会社」が上長者町に設立され、氷の卸小売業を始めている。ちょうど犬山で製氷事業が始まった頃であり、木曾川で造られ、愛船株式会社の船で運ばれた氷の販売を行っていたものと思われる。

 
今も残る氷場跡
(可児川下流自然公園内)
冬になると、田圃のような区画に水を入れて凍らせた

犬山と名古屋の交通と流通を大きく改善したこの航路も、明治35年(1902)には名古屋と犬山を結ぶ定期乗合馬車が運行されるようになり大正元年(1912)には名古屋電気鉄道が犬山まで開通して徐々に利用が減り、ついに大正13年(1924)には38年間続いた愛船株式会社の運航は廃止された。

 北清水橋上流の北清水親水広場は、かつては川幅が広くなった舟溜まりで荷上場だったところだが、平成8年(1996)に埋めて整備され、水辺近くの憩いの場所になっている。

【参考】『明治の名古屋』『犬山市史』など

 2021/6/26