黒川は名古屋が近代的な産業都市へ変身するために、犬山と名古屋を結ぶ舟を通航させるために開削された川である。大正時代までは多くの舟が行き来し、名古屋の産業と人の暮らしを支えてきた。 |
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黒川開削 | 犬山と名古屋を結ぶ舟運 | 天然氷 黒川を行く |
○明治10年 黒川を開削 最初に行われたのは庄内川と堀川を繋ぐ新川の開削である。明治9年(1876)11月に「庄内川分水工事」という名称で工事が始まり、翌10年10月(資料によっては9月)に完成した。 現在の庄内川水分橋(守山区)の所に元杁樋門を設けて取水し、南西へ新しい水路を掘り進めた。矢田川の下を伏越(水路トンネル)でくぐって南側へ出て、さらに南西へと水路を造り、現在の猿投橋(北区)のところで江戸時代に堀川へ接続された大幸川へ接続した。そこから南は大幸川を改修して利用している。 この事業のなかで、城の堀へ水を送っていた御用水と、名古屋の西・南部の田へ水を供給している庄内用水のルートも付け替えられている。 この新川は、事業を担当した愛知県技師 黒川治愿(はるよし)の名から「黒川」と呼ばれるようになった。 |
下図 明治22年 1/50000地形図 |
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○明治17年 新木津用水の拡幅など完了 黒川は順調に工事が進められたが、新木津用水の拡幅は難航した。上流と下流の農民たちの利害対立があり、疲弊した当時の農民たちは受益者負担金が払えないなどの問題があったからである。 さまざまな課題を乗り越えて、明治17年(1884)になり全事業が完成した。 |
黒川に「新開鑿通船路」と書かれている 『名古屋明細図』 明治11年 |
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犬山と名古屋の交通と流通を大きく改善したこの航路も、明治35年(1902)には名古屋と犬山を結ぶ定期乗合馬車が運行されるようになり、大正元年(1912)には名古屋電気鉄道が犬山まで開通して徐々に利用が減り、ついに大正13年(1924)には38年間続いた愛船株式会社の運航は廃止された。 |
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【参考】『明治の名古屋』『犬山市史』など |
2021/6/26 |